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東京杉並区・井草八幡宮

2012年01月02日 | Weblog
井草八幡宮 (東京都杉並区善福寺1-33)
御祭神: 八幡大神(やはたのおおかみ)/応神天皇
 
 
(左)井草八幡宮・神門と社殿 (右)社殿は拝殿、幣殿、本殿からなる。

 創建当時は、春日社をお祀りしていたという(注1)。 文治5年(1189)、源頼朝が奥州征伐(奥州合戦)の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わる。 それ以来、八幡宮を奉斎するようになった。 奥州帰陣の後、源頼朝が当神社を建久年間(1190-1198)に建立したとの伝えもある(注2)が、証拠不十分である。
 当宮社殿前に、源頼朝が手植えしたと言われる雌雄二本の松があったが、雌松は明治初年に枯れ、雄松は昭和48年に枯れてしまった。 手植えした時期についても、奥州征伐の戦勝祈願のため、あるいは平定後の報賽のためとの伝えがある。
(注1)井草八幡宮ホームペジ(HP)より。
(注2)井草八幡宮が所蔵する、江戸時代に記した縁起。(「杉並の神社」杉並区教育委員会、S55.3月発行)

 その後については、境内に立てられている「井草八幡宮略記」を参考方。

井草八幡宮略記
 「井草八幡宮の鎮座地は古くは南に清流を望む付近第一の景勝地で、(略)、当社は、(略)、古地名を冠して遅井(おそのい)八幡宮とも称せられていた。(略)
 文明九年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり当社に戦勝を祈願したと云い伝えられている。
 江戸時代に至って三代将軍家光(注3)は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営せしめ、又歴代の将軍は何れも朱印地を寄進し江戸末期の萬延元年に及んでいる。地頭今川氏(注4)も深く当社を尊崇して或は社殿を改築し、諸調度を奉献する等その興隆を図り毎年例祭には幣物を奉るのを恒例としていた。 (略)
 明治以降氏子崇敬者また良く社殿の修造、境内の整備等に務め、昭和三年郷社に列せられたが、その後更に社殿等を増築し、文華殿(宝物殿)・幼稚園・民俗資料館等を設置した。 (略)
 昭和四十一年には旧官国弊社に準ずる別表神社に列せられ今日に至っている。 (略)」
(注3) 徳川家光は、六石余の朱印領の給付している。
(注4) 旧上井草・旧下井草は、正保二年(1645)以降、高家・今川氏の領地となった。 今川氏堯によって寛文四年(1664)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に納められている。

 
(左)楼門 (右)南西側の参拝入り口

 現在は、青梅街道に面して大鳥居(高さ9m)が建てられ、東参道を通り、楼門から神門、社殿へと参拝するコースが主となっている。 青梅街道は、慶長8年(1603)、江戸城築城のために、青梅から石灰を運搬する道路として整備されたといい、それ以前は、南側に面した参道があったようだ。 現在、南側の西寄りに鳥居があり、参拝入り口の一つになっている。 (南側の東寄りにも鳥居がある。)
 実は、社殿から神門を南側に真直ぐ進んで、玉垣、道路を超えた所に井草八幡宮の駐車場がある。南北に細長く、やや下りの急坂である。 さらに下ると善福寺池の東側に出て、善福寺川にぶつかる。 この直線のどこかに往時の一の鳥居があったのではないかと推測する。

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