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奈良市・西大寺旧境内 唐出身「皇甫東朝」の名を記した須恵器の杯が出土

2010年04月09日 | Weblog
 奈良市埋蔵文化財調査センターは8日、称徳天皇が造営した西大寺旧境内から、天平年間の遣唐使船で来日し奈良時代の朝廷に仕えた唐人「皇甫東朝」(こうほとうちょう)の名が記された墨書土器(須恵器の杯)が見つかったと発表した。唐から渡ってきた外国人の名前が記された墨書土器の出土は初めてという。
 昨年4~7月の調査で、現西大寺境内の西南角の旧境内の区画溝(長さ約30m、幅約7m)からアッバース朝のイスラム陶器や神護景雲二年(768)三月五日と記された木簡、石上宅嗣の名を記した木簡とともに見つかった。直径約16cmの杯の底裏面に、縦書きで2行、左は「皇」と、「浦」(「甫」の当て字)の2文字、右には「東」と、「朝」の可能性が高い2文字があった。ほかの文字(「所」と「水」)も書かれており、練習で書いた可能性もあるという。また、油煙の跡があり、皇甫が寄進した灯明皿だった可能性もあるといる。
 「続日本紀」などによると、皇甫東朝は、第10次遣唐使が天平8年(736)に帰国した際、東大寺大仏の開眼導師を務めることになる天竺(インド)僧の菩提僊那(ぼだいせんな)らとともに来日。称徳天皇の天平神護2年(766)に法華寺の舎利会で唐楽を奏でた功績で従五位下となり、翌年に「雅楽員外助」「花苑司正(かえんしのかみ)」、769年從五位上に出世した。称徳天皇死後の宝亀元年(770)に越中介になった。
 墨書土器は12~18日、市埋蔵文化財調査センター(同市大安寺西2)で展示される。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、日経新聞、読売新聞]

朝廷に仕えた唐人音楽家、名前入り須恵器発見(読売新聞) - goo ニュース

続日本紀より皇甫東朝の記述抜粋
□天平八年(736)十一月戊寅。《丙子朔三》(略) 唐人皇甫東朝。波斯人李密翳等授位有差。
□天平神護二年(766)十月癸夘。《廿一》(略) 皇甫東朝。皇甫昇女並從五位下。以舍利之曾奏唐樂也。
□神護景雲元年(767)三月己巳。《二十》(略) 從五位下皇甫東朝爲雅樂員外助兼花苑司正。
□神護景雲三年(769)八月甲辰。《九》(略) 授從五位下皇甫東朝從五位上。
□宝亀元年(770)十二月丙辰。《廿八》(略) 從五位上皇甫東朝為越中介。 (略)

備考
皇甫東朝が越中介となったことについて、降格したとする記事があったが、降格かどうかは不明。続日本紀に越中国の役職を記した履歴を下記に列挙する。
719 越前国守正五位下多治比真人広成、管能登、越中、越後。
   (注)多治比真人広成は732年遣唐大使となり、733年唐に渡り(3月に出発か)、734年11月(多祢嶋)種子島に帰着。
732 外従五位下田口朝臣年足為越中守
741 從五位下阿倍朝臣子嶋爲肥後守。安房國并上総國。能登國并越中國。
746 従五位下大伴宿祢家持為越中守 (注:~751)
754 従五位下石川朝臣豊人為越中守
761 従五位下阿倍朝臣広人為越中守
   外従五位下蜜奚野為越中員外介 (注:員外介:国司の次官で律令の定員外となる役職)
766 従五位下国見真人安曇為越中介
767 外従五位下利波臣志留志越中員外介 
768 従五位上甘南備真人伊香為越中守 (注:はじめ伊香王と称する敏達天皇の後裔。777年正五位上になった以降消息不明。)
770 従五位上皇甫東朝為越中介
772 従五位上石川朝臣真守為越中守 (注:~776)
774 従五位下牟都伎王為越中介
(以降省略)

過去の関連ニュース・情報
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 2009.7.3西大寺旧境内 8世紀後半のイスラム陶器の壺片が出土

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