滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館は29日、天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の際、長浜城にいた羽柴秀吉の母なか(大政所)と正室ねね(おね、北政所)らを避難させた家臣・広瀬兵庫助に感謝し、恩賞を与えると記した「羽柴秀吉・秀勝連署宛行状 広瀬兵庫助宛」文書が見つかったと発表した。
文書の写しが存在し内容は既に知られていたが、9月に兵庫助の子孫の男性が原本を博物館に寄託した。
これまでの研究では、本能寺の変が起きた時、秀吉は備中高松城(岡山市)を攻略していたが、ねねや母らの家族は居城の長浜城にいた。 翌日、本能寺の変の知らせが長浜城に届き、美濃国の土豪で家臣(注1)だった兵庫助は、ねねらを美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内広瀬)に逃がし、兵庫助の館に匿い助けた。(注2)
その後、長浜城は明智勢に占拠された。
文書は、ねねらが長浜城に帰った6月19日付。 秀吉の家臣の筆跡で「今回、女性たちと美濃へ行くのに尽力してくれてうれしい」と記し、恩賞として500石の領地を与えるとも書かれていた。秀吉直筆の花押もあった。
[参考:京都新聞、共同通信、産経新聞、中日新聞]
2015.10.31追記
その後いろいろ調べると、
(注1)この時、秀吉の家臣であったか疑問である。おそらく、恩賞を得た後に家臣となったのではないか。
(注2)美濃国広瀬村に逃げ匿うことを考えたが、途中、甲津原(米原)に逃げ隠れたらしい。
秀吉家族の逃避行、原本発見 本能寺の変直後、恩賞約束
本能寺の変直後に直筆、秀吉の書発見 11日から長浜城歴史博物館で公開
「女性たちを逃してくれた」秀吉が感謝の書状 本能寺の変で正室・ねねの逃避行を手助けした地侍に 滋賀
文書の写しが存在し内容は既に知られていたが、9月に兵庫助の子孫の男性が原本を博物館に寄託した。
これまでの研究では、本能寺の変が起きた時、秀吉は備中高松城(岡山市)を攻略していたが、ねねや母らの家族は居城の長浜城にいた。 翌日、本能寺の変の知らせが長浜城に届き、美濃国の土豪で家臣(注1)だった兵庫助は、ねねらを美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内広瀬)に逃がし、兵庫助の館に匿い助けた。(注2)
その後、長浜城は明智勢に占拠された。
文書は、ねねらが長浜城に帰った6月19日付。 秀吉の家臣の筆跡で「今回、女性たちと美濃へ行くのに尽力してくれてうれしい」と記し、恩賞として500石の領地を与えるとも書かれていた。秀吉直筆の花押もあった。
[参考:京都新聞、共同通信、産経新聞、中日新聞]
2015.10.31追記
その後いろいろ調べると、
(注1)この時、秀吉の家臣であったか疑問である。おそらく、恩賞を得た後に家臣となったのではないか。
(注2)美濃国広瀬村に逃げ匿うことを考えたが、途中、甲津原(米原)に逃げ隠れたらしい。
秀吉家族の逃避行、原本発見 本能寺の変直後、恩賞約束
本能寺の変直後に直筆、秀吉の書発見 11日から長浜城歴史博物館で公開
「女性たちを逃してくれた」秀吉が感謝の書状 本能寺の変で正室・ねねの逃避行を手助けした地侍に 滋賀
1. 広瀬兵庫助の生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しています。美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。
(広瀬家の分家となる飛騨国広瀬家の出身という記録は、広瀬家史料には全く存在しません。改めて記事にいたしまして、その旨ご報告いたします)
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と、戦乱の時代における複雑な諸事情で名を変えています。
⑶広瀬兵庫助の兄弟は、兄・康宗(康則の長男)、弟・了玄(康則の三男)、弟・九助(康則の四男)です。これは、広瀬家一族伝承の史料に詳細に記されています。
2.広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について
⑴1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。これも、広瀬家一族伝承の史料に詳細に記されています。
⑵明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はなく、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を拝領することは100%ありえないことです。後述の通り、1576年と1580年にも信長に対抗した行動の記録があります。
(3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。1572年の康則の討死落城から2年後の1574年には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。
(4)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。
(5)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は石山本願寺に出陣し信長に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が敗れました。
(6)1582年6月2日に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、秀吉の家臣となったのです。当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。
広瀬兵庫助は信長に対抗して戦い、兵庫助一族伝承の広瀬家史料に次の通り記されています。
1.広瀬兵庫助の父・康則は信長家臣・稲葉一鉄に討死落城
⑴1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、美濃国広瀬郷の初代・広瀬康述から代々受け継がれた372年間の長期の繁栄も領地を明け渡して幕を閉じました。
信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。「東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。
⑵明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」とあります。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。
広瀬兵庫助が信長から拝領した記録は全くなく、後述の通り1576年と1580年にも信長に対抗した行動の記録があります。
この記録は、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を拝領することは100%ありえないことを物語ります。
2. 広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、信長に対抗
(1)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。
(2)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は石山本願寺に出陣し信長に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が敗れました。(浄土真宗のことを他の宗派は一向宗と呼んでいました)
3. 広瀬兵庫助の生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。
1624年3月15日に66歳で死亡しています。美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と、戦乱の時代における複雑な諸事情で名を変えています。また、その時の立場で名前を使い分けています。
(3)広瀬兵庫助の兄弟は、兄・康宗(康則の長男)、弟・了玄(康則の三男)、弟・九助(康則の四男)です。
時代はさかのぼって、兵庫助の祖父・康利と父・康則は大事件に直面しました。そこで、その大事件の背景を探ってみたいと思います。
戦国時代の多くの百姓(農民)は、戦乱が続く不安定な政治体制下で過酷な生活を強いられていました。その実態は、頭角を表してきた守護大名(戦国大名のこと)の抗争の影響を受けて、守護大名と地頭からの二重支配(年貢の二重徴収など)の状態となりました。
その結果、重税と過酷な労働に不満をもつ百姓を中心とした抵抗勢力の動きが活発となり、一向一揆(浄土真宗の信者の一揆、この宗派のことを他の宗派は一向宗といった)といわれる権力者に対抗する動きが全国各地に広がっていました。
当時の一向一揆は、国人(地頭などの事実上の領主)や地方の土豪(その地の豪族)などが中心となり、守護大名から自治権を回復する為の抵抗運動が活発化していました。
参考までに、この地域の当時の一向一揆と戦国大名の動きなどをみてみましょう。享禄4年(1,531年)の一向一揆では、越前国(福井県) 守護大名の朝倉教景は敗れ、浄土真宗の門徒側が多くの土地を占拠しました。
天文元年(1,532年)には、山城国(京都府)の山科本願寺が法華宗徒の焼き討ちに遭い、この時の證如上人(本願寺第10世)は、後に大坂の石山に本願寺の本拠を移しました。天文2年(1,533年)には、摂津国(大阪府の一部と兵庫県)で一向一揆がありました。
天文3年(1,534年)には、北近江(滋賀県北部)守護大名の京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)は、京極氏の領地を奪いました。(世に言う下克上で、南北朝から戦国時代における下級階級の台頭傾向のことをいう)
浅井氏は、その後の一時期において越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏と同盟を結んで勢力をふるいましたが、浅井長政(淀君=秀吉の側室=の父)は天正元年(1,573年)に織田信長と戦って、祖父の代から39年で滅亡しました。
【最初の大事件】
天文3年(1,534年)の2月下旬(当時は旧暦の時代で、現在の暦では4月中旬にあたる)に、最初の大事件は起きました。
康述の子孫にあたる広瀬彈正康利(兵庫助の祖父)が、美濃国広瀬郷の広瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)第16代広瀬城主の時、康利の長男・康明(当時6歳)は広瀬村北村(北村に広瀬城がありました)の住人で百姓頭(農民の責任者)の助太夫ら10人に山奥深い炭焼き小屋へ連れ出されて監禁され、4日目に殺害されました。
広瀬村北村の百姓たちは、地侍の立場にある城主の康利に対し長男・康明を人質に連れ出して、城主が百姓の先頭に立って一揆を起すよう要求したのです。
城主・康利の判断が甘く守護大名(戦国大名)の抗争に巻き込まれることを恐れて、百姓の要求を受け入れないまま決断を思い悩んでいるうちに、幼い康明が殺害されたのです。百姓らの要求に対する回答期限の3日目を過ぎた4日目の早朝に殺害されました。
広瀬郷の百姓たちは、最も地の利の良い(交通の便が良く経済圏として最も近かった)北近江の京極氏からの二重支配の触手に苦しんでいたのでした。
ところが、この事件で事態は膠着状態のままとなったあげく、その年に京極氏は家臣の浅井氏に国を奪われ衰えたのです。
京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)が京極氏の領地を奪うのが半年早く起きていたら、広瀬郷の城主・康利の長男・康明の殺害事件は無かったかも知れません。
その後、越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏、近江国の浅井氏は、同盟を結び一時は落ち着きを取り戻したかと思われました。
天文3年(1,534年)の2月(現在の暦では4月中旬)の事件が、数十年後に広瀬一族が遭遇する最大の危機(第二の大事件)の前兆だったとは、誰も夢にも思わなかったのでした。
それは、織田信長の覇業(武力で天下の支配者となる事業)著しい台頭(今まであった勢力に代わって新しく勢力を得て進出してくること)だったのです。
また、一時は衰えたかにみえた京極氏は、浅井氏との政略結婚を重ねて、京極高次(浅井長政の次女・お初=淀君の妹=を妻として迎えた)の時代に豊臣秀吉に仕えて再興しました。
話は元に戻りまして、この事件当時、分地政策として兵庫助の祖父・康利は、城主とその家族の一部が別々の土地に住んでいました。
城主家族の生命の安全を確保するために康利の長男・康明は美濃国の広瀬郷広瀬村に住み、次男の康則(当時3歳・兵庫助の父)を飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)に住まわせていました。康則は将来の分家への婿養子含みで、分家の親族に預けられて養育されていたのです。
この康明殺害事件の結果、康利の次男・康則は兄・康明が継ぐはずだった城主の地位を父・康利の死後に、第17代城主として跡を継いだのでした。
事件当時の康則は、その名も「広瀬飛騨四郎康則」でしたが、この事件のあと暫くして美濃国広瀬郷広瀬村に戻り「広瀬左馬亟康則」と名乗り、父・康利の死後に「広瀬加賀頭康則」として城主(地頭職に就いた)となりました。
この事件後の康利は、再び決断ミスを繰り返さないようにと行動していました。後に、康利の3人の孫(康利の次男で康則の子=兵庫助を含む3兄弟)が信長に対抗して一向一揆の活動支援のために本願寺のある大坂の石山に出陣したのは、こうした事情があったからです。
祖父の康利からの「城主を支えてくれている領民の強い要望には適切に判断して、その要望に出来る限り応える事」という教えを守り「世のため人のため」に実行したのでした。
この当時の広瀬一族には、美濃国の広瀬郷に本家を置いて飛騨国の広瀬郷に分家があり、本家と分家には併せて4つの城がありました。
美濃国の広瀬郷広瀬村には広瀬城、飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)には瓜巣城(高堂城ともいう)、飛騨国の広瀬郷名張村(岐阜県高山市国府町)には広瀬城(田中城ともいう=家臣の田中家が城代家老だったため)、飛騨国の広瀬郷広瀬町村(岐阜県高山市国府町)には山崎城(広瀬家の持城で詰城=家臣が出勤するための城)があったのです。
こうした中で、美濃国と飛騨国の広瀬一族は本家と分家の相互扶助(お互いに助け合う)の密接な関係が保たれていました。
そして、元亀3年(1,572年)6月13日、広瀬家の本家に最大の危機(第二の大事件)が起こったのです。
城主・康則と家臣との不和がきっかけで、亡父・康利の老家臣だった東野大助の謀略(織田の家臣に内通していた)により織田信長の家臣・稲葉一鉄(江戸幕府第3代将軍徳川家光の乳母・春日局の祖父)に大勢で攻められ落城しました。
城主・康則(兵庫助の父)は討ち死にし42歳の生涯を閉じました。そして、広瀬城372年間の長期の繁栄も一旦幕を閉じました。
この後、天正9年までの約9年間にわたり広瀬村は、織田信長の家臣・稲葉一鉄が直接支配することはなく、信長による横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町にあり 断食による修行僧がミイラ化した即身仏で有名な寺院) への統治委託領地となりました。
広瀬城が落城してから400数十年後の現状については、「城跡は現在田園になっていて、その一角に小さく盛り上がった塚のようなものがあり、誰もここは掘らないことにしています」(岐阜県百科事典)とあります。
以上の通り、天文3年(1,534年)には祖父の康利が重大な危機に直面し、元亀3年(1,572年)には父の康則が戦死し落城、慶長5年(1,600年)には兵庫助も戦いに敗れ親子孫と三代続けて絶望のどん底に突き落とされましたが、必ず生き残るという強い心が運命を変えたのです。
1.私は、広瀬兵庫助の正統の末裔として広瀬兵庫助専門の研究家です。広瀬兵庫助一族として調査に基づく広瀬兵庫助の研究情報を最多研究保持しています。
2.「広瀬兵庫助」に関して、約10年前から長浜城歴史博物館様への情報提供をして参りました。
3.長浜城歴史博物館が10月29日の報道関係者への発表で、様々なマスコミの報道がありますが、一部「広瀬家史料」と異なる部分があります。その内容は、長浜城歴史博物館様へ既にEメールでご連絡済みです。
4.報道と「広瀬家史料」との異なる部分
⑴広瀬兵庫助は美濃国広瀬家本家の出身が正しく、分家の飛騨国広瀬家の出身は誤り。
⑵信長から拝領した領地を秀吉が追認したとあるのは誤りで、秀吉から正式拝領の所付(知行書)であります。領地を信長から拝領することがあり得ないことです。
5.本能寺の変の直後、秀吉家族の逃避行先は美濃国広瀬村の広瀬兵庫助の館が当初の避難予定先であり、避難先として滞在したのは近江国の甲津原です。
6.秀吉の家臣として広瀬兵庫助が秀吉家族の逃避行に尽力したのではなく、逃避行に尽力した結果の恩賞で秀吉の家臣に登用されたのが正しいのです。
広瀬兵庫助に関する情報は、私のブログ
【永遠の平和を祈り続けた広瀬兵庫助】
http://cocologhonobono.cocolog-nifty.com/blog/
で公開しています。
ご参考までに ご連絡申しあげます。
ご無礼を謹んでお詫び申しあげます。
【広瀬兵庫助 研究所】
いろいろ書き込み(ご教示)をありがとうございます。
広瀬兵庫助の先祖・広瀬康述は、1200年(鎌倉時代の初期)に大和国広瀬郷(奈良県北葛城郡河合町)から美濃国(岐阜県揖斐郡揖斐川町)へ領地を移されたと書かれていますね。
大和國廣瀬郷(郡)には、廣瀬大社(旧廣瀬神社、祭神:若宇加能売命)があります。
岐阜県にある広瀬神社を探してみると3か所ありました。
1.広瀬神社 岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内広瀬2803番地
白鳳5年に創建。 創建当時は天照大神を祭っていたが、現在は宇多天皇をも併せて祀っている。
2.広瀬神社 岐阜県高山市国府町広瀬町(桜野)2604番地
創建不詳。 祭神は天照皇大御神。 応永18年(1411)、飛騨国司姉小路尹綱が、足利将軍に攻め滅ぼされたき焼亡したが、後に領主広瀬氏により再興されたが、年月は不詳である。永正十七年(1520)、広瀬利治が再建した棟札があるという。
3.広瀬神社 岐阜県山県市葛原4980番地の2
創建不詳。祭神:稚宇賀能売神(若宇加能売命)
(岐阜県神社庁HP)
これらはネットワークでつながっている感じがします。
源(宇野)有治以降、わからない部分が多いです。
広瀬神社 岐阜県山県市葛原4980番地の2 以外の地域との関連は①先祖・広瀬康述の生誕地②広瀬康述の移封地、美濃国広瀬家本家③飛騨国広瀬家分家の各氏神として存じていましたが、岐阜県山県市の広瀬神社は知りませんでした。
今後の研究の参考にさせていただきます。誠に有難うございました。
【広瀬兵庫助 研究所】
広瀬兵庫助に関して広瀬家史料に基づく内容と報道等との差異は、次の通りです。
1. 1583年11月12日 広瀬兵庫助宛の知行書「広瀬文書」について
(1)広瀬兵庫助は秀吉から1583年11月12日、1500石の領地と報酬が付与されて美濃国広瀬村・坂本村、近江国新庄村・高山・甲津原・杉野の領地を支配しました。
秀吉からの文書には「その方在所、広瀬2カ村・・・」とありますが、広瀬家史料には「その方在所、広瀬2カ村(坂本を併せ)・・・」との解説を付記しています。
(2)広瀬2カ村(坂本を併せ)とは、美濃国広瀬村・坂本村(広瀬村の隣接村)を指しています。広瀬村には北村、西村、羽根の3集落がありますが、村として機能していません(村のつく小集落があるということです)。「その方在所、広瀬2カ村・・・」とは北村・西村の2集落ではなく、美濃国広瀬村・坂本村の2カ村です。広瀬村のうち北村・西村の2集落と坂本村を知行するということではありません。
2. 広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について
(1)1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から372年間にわたり代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。
「信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。
(2)明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。
広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はなく、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を再び信長から拝領することは100%ありえないことです。後述の通り、1576年と1580年にも信長に対抗した行動の記録があります。
(3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。
1572年の康則の討死落城から2年後の1574年には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。
(4)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。
そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。
(5)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は本願寺(大坂石山)に出陣し、信長軍に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が信長軍に敗れました。
(6)1582年6月2日に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、その恩賞で秀吉の家臣となったのです。
当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。
3. 広瀬兵庫助の出身地について
広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しています。
美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。美濃国広瀬村・坂本村の2カ村が広瀬郷を構成していました。
(広瀬家の分家となる飛騨国広瀬家の出身という記録は、広瀬家史料には全く存在しません。)
ご参考までに ご連絡申しあげます。
☆1582年6月 「本能寺の変」直後と広瀬兵庫助の活躍☆
天正10年(1582年)6月2日の早朝、「本能寺の変」が起きました。
直後に、広瀬兵庫助が警護し治安安定までの10数日間を、近江国長浜城(滋賀県)から秀吉の母と夫人らの秀吉家族の避難を援助し、伊吹山奥への避難警護と慰労に尽くして近江国甲津原(滋賀県米原市)へと来た所で旧知の知人の館で10数日間の滞在をして警護と逃避行の慰労に努めました。事態収拾後に秀吉からの恩賞をうけて家臣になりました。
☆「本能寺の変」直後と広瀬兵庫助の活躍に関する文献の要点☆
「豊鑑」「東浅井郡志」などの多くの文献では、長浜城から美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬)の広瀬兵庫助の館へ向かい、秀吉家族を匿ったと記されていますが、現実は広瀬兵庫助の館へ向かう当初の予定を逃避行の途中の適切な判断で変更し、近江国甲津原(滋賀県米原市)に留まって警護と慰労に尽くしたのでした。
☆「広瀬兵庫助史料」により広瀬兵庫助の活躍をリアルに再現☆
「広瀬兵庫助史料」(「広瀬家史料」の一部です。広瀬兵庫助の事績に関して子孫の寺院で過去帳と共に大切に伝承し続けている文書)に基づいて、リアルに綴られた広瀬兵庫助から伝承の生の記録から核心部分を詳細にお伝えします。
これが【歴史家も知らない広瀬兵庫助の歴史】です。
☆広瀬兵庫助の甲津原に留まって警護と慰労に尽くした詳細☆
「本能寺の変」の知らせが長浜城へ届いたのは、一日遅れの天正10年(1,582年)6月3日の早朝でした。この日の午前中に、長浜城から美濃国広瀬村の広瀬兵庫助の館を目指して秀吉家族の一行は出発し逃避行が始まりました。
秀吉の母(なか)と夫人(おね)、夫人の兄(木下家定)とその夫人、夫人の姉(やや)とその夫(浅野長政)の一行でした。
秀吉の母と夫人は、下げ髪うちかけ姿で輿 (長柄でかつぐ乗り物)に乗り、秀吉夫人の兄・木下家定は武士の正装をした裃侍姿でした。
戦国時代における一国一城の主の家族と親族の避難行動とはいえ、その服装は現在でいえば、ご婦人はドレス姿で、紳士はスーツ姿という正装だったのです。その心は、近江国から美濃国への亡命という様な神妙な心境だったに違いありません。
広瀬兵庫助は鎧武者姿で秀吉家族の一行を警護して、伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境付近)山中奥深い甲津原へと来ましたが、ここから広瀬村の広瀬兵庫助の館へたどり着くには輿をおりて過酷な山道を徒歩で進み、新穂山の過酷で険しい峠を越えてから、更に5里(約20㎞)にある遠境にありました。5里(約20㎞)は、健康な成人の男子では平地を徒歩で5時間位はかかる距離です。ましては女性の足では10数時間はかかると思われる山路でした。
こうした様々な状況から安全な避難行動をとるための判断として、一行は甲津原で輿を止めて、この地にある兵庫助の知り合いの館で、広瀬兵庫助は専ら警護に努めれば恐らくは危難の心配はないとして甲津原に留まることを決断したのです。
幸いにも甲津原には、猿楽(仮面をつけた滑稽な芸能で古来伝統の舞楽)の太夫(岐阜県揖斐川町春日の出身で甲津原に居住していた)が居り、滞在した館前で演じて貰って、逃避行の辛い旅情を慰労し、広瀬兵庫助が警護に専念しておもてなしをしたのです。
幾日(10数日)かの日々を慰労と警護に尽くして過ごし、しばらくして事無く済んだのです。秀吉は帰城後に直ぐにも広瀬兵庫助へ「甲津原文書」といわれる感状(功績を賞して主君から与えられる文書で、感謝状ではなく領地を与える知行書の性格をもつ文書)を広瀬兵庫助に手渡して功を労したのです。
以上が【歴史家も知らない広瀬兵庫助の歴史】の一節です。
ご参考までに ご連絡申しあげます。
情報ありがとうございます。
秀吉の母(なか)と夫人(おね)、夫人の兄(木下家定)とその夫人(おあこ・雲照院?)、夫人の姉(やや)とその夫(浅野長政)が一緒だったのですね。興味があります。
浅野長政(当時はまだ長吉)も広瀬兵庫助に助けられたのですね。
長浜城歴史博物館で広瀬兵庫助の展示が開催中ですが、残念ながら長浜城歴史博物館への情報提供は生かされていません。やむを得ず展示品寄託者を介して、気持ちを伝えましたら、「検証するのに時間を要する」とのメッセージがありました。
やむを得ず、次の通り私のブログへ掲載しています。
【「広瀬兵庫助」の歴史は子孫が語り継いでいます】
☆広瀬兵庫助の履歴書は子孫が語り継いでいます☆
広瀬兵庫助の履歴書は、兵庫助から語り継がれた「広瀬兵庫助史料」に基づいて、子孫によって語り継いでいます。兵庫助の苦難と活躍の真実の歴史を確認し①情報の共有②伝承③広報活動を行い、後世へと受け継いでまいります。
☆広瀬兵庫助を記す出版物等の記事には一部に誤認があります☆
これまで無名だったため、戦国武将で秀吉の家臣だった兵庫助の個人史の動向に関しての出版物等の記述は、広瀬家に伝わる「広瀬兵庫助史料」と記述の核心部分の一部において、思い込みによる伝聞や伝説、詳細が不明で仮説や推定によるものを採用して記述されたものが多々あります。
一旦、出版物等として世に出てしまえば、そのままを一部の歴史家等は容認しているとみられます。これは、「広瀬兵庫助史料」からはかけ離れた誤認記事として捉えていないのです。
☆広瀬兵庫助の個人史は、真実はただ一つです☆
兵庫助の個人史は、真実はただ一つです。伝聞や伝説、詳細が不明で仮説や推定に基づいた不確定な事績は、誤認記事となりやすいのです。兵庫助の動向について、「○○村の伝説によれば・・・」や「○○と伝わる・・・」との記述があっても、疑問を抱かないのでしょうか。
兵庫助の記事は、「豊鑑」「東浅井郡志」などにありますが伝聞や伝説を記事にしたものもあり、世の歴史家等は疑問を抱かない一部の人もいるようです。
☆広瀬家に伝わる「広瀬兵庫助史料」は兵庫助の日記の伝承です☆
兵庫助のリアルな伝記を継承した広瀬家に伝わる「広瀬兵庫助史料」は、出版物等とは次元の異なる別格の貴重で重要な兵庫助からの「おき手紙」であり、歴史家等の知る機会のない兵庫助からの長文の履歴書であり自分史です。
子孫として兵庫助の歩んだ正確な歴史を見極めて、後世に受け継いでいく大切な置き土産にしたいと思っています。
ご参考までに ご連絡申しあげます。