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歴歩

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高島市・弘部野遺跡 古代北陸道の駅家跡か、建物群跡など出土

2009年06月25日 | Weblog
 市教育委員会は24日、都と北陸地方をつなぐ古代「北陸道」の要所である弘部野(ひろべの)遺跡で、7世紀前半~9世紀後半(飛鳥-平安時代前期)の掘っ立て柱建物群の跡などが見つかったと発表した。
 市教委は、駅家(うまや)の可能性があり、確認されれば北陸道では初めてである。
 出土したのは、母屋と離れとみられる2棟の掘っ立て柱建物や柵の跡。母屋は柱の間隔が3mあり、古代の役所と同規模という。約250年間に2回建て替えた跡があった。倉庫もあった。
 掘っ立て柱建物は、柱の穴が直径40cmを超えるものもあり、柵で区画され、整然と並んでいた。長期にわたり、集落として機能していたらしく、駅家のほか、有力者の屋敷とも考えられる。
 古代の北陸道は、琵琶湖西岸沿いを北上するルートが知られているが、近年の研究では、8世紀後半までは同遺跡を西進して福井県内の若狭湾沿いを北上するルートの存在も解明されつつある。
 現地説明会は7月4日午後1時半から。
[参考:産経新聞、共同通信]

2009.6.25コメント
 25日朝、読売新聞のニュース記事を見て、ちょっと内容違っているのであげてみた。
 集落跡のうち、奈良時代の6棟は柱の間隔が最大3m、柱穴の1辺が1mを超える大型で、計3回の建て替えが行われていることが判明。
 柱の間隔などが平城京などの役所とほぼ同じことから、国、郡の下部にあたる「郷(ごう)」に関係する施設だったとみている。また遺跡周辺には、古代の官道・北陸道が通っていたと推定。駅家など公的施設の可能性があるともしている。[参考:読売新聞]

 「延喜式」では、今回の遺跡を通る北陸道の近江西ルートとしての駅家は、「穴多五疋。和爾。三尾各七疋。鞆結九疋。」4箇所があげられている。その4箇所は穴太(大津市穴太)、和邇(大津市和邇中)、三尾(高島市安曇川町三尾里)、鞆結(マキノ町)に比定されている。したがって、遺跡はルート近くにあるが、駅家としては「延喜式」には該当していない。

 また、高島から越前に直行するルートの前に、若狭を経る周行ルートがあったという学説があり、同遺跡は「北陸道」ルートから外れ、高島市から若狭に抜ける国道303号沿いに位置し、駅家だとすれば、周行ルートの存在を裏付ける証拠となるとする。[参考:京都新聞]




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