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臼杵藩領の砲台建設に利用か 伊能忠敬の地図発見

2009年05月29日 | Weblog
 伊能忠敬(1745‐1818)が作成した全国地図「伊能中図」のうち、臼杵藩領だけを書き写した地図が、臼杵市の臼杵図書館書庫から見つかった。史料を整理していた学芸員が2004年、地図と臼杵市洲崎にあった大砲や砲台の設計図7点が入った和紙の袋を見つけ、今年2月に伊能忠敬記念館(千葉県香取市)に鑑定を依頼。伊能忠敬が作成した地図と完全に一致した。伊能忠敬は特定の藩だけの地図は作成しておらず、臼杵藩が伊能の地図を書き写したものとみている。
 臼杵藩が海岸に近い台場に設置していた大砲や砲台の設計図とともに和紙の袋に保存されていたことから、臼杵藩が砲台を配置する場所や方角を定める際、伊能忠敬の地図を活用したのではとみている。
 地図は和紙製で縦40cm、横28cm、厚さ約1mm。臼杵藩領だった大分市の大野川から津久見市港町付近までの海岸線が赤色、熊本藩や佐伯藩との領界が灰色の線で書かれ、臼杵藩領内に35の地名が書かれている。
 臼杵藩は、最後の藩主稲葉久通が藩主だった幕末の1860年ごろ、外国船の来襲に備えて砲台10基を設置した。現在は臼杵市立東中学校グラウンドになっている。
[参考:西日本新聞]

<関連年表>
 18世紀末より、諸外国の艦船が日本の沿岸に接近しはじめた。
 文化7年(1810) 伊能忠敬が、二豊にやって来て測量をした。
 文政8年(1825)、「無二念打払令」を出し理由のいかんを問わず、日本海岸に近付く外国船を追い払う命令を布告した。
 天保13年(1842)、諸情勢に因み外国船に対して、燃料や水、食料のみを給与する「薪炭給与令」を公布し、一方、海岸防備を強化した。臼杵藩 では、「軍事 調練(ちょうれん)図」 「異国船渡来之節手配図」 「海岸絵図」などを作成し、幕府に提出した。
 天保14年(1843)、軍牒(ぐんちょう)役所を設け、領内 川登(かわのぼり)組に「川登 鉄炮卒」を組織した。
 嘉永2年(1849)、領内の海岸の水深を調査して、その結果を「海岸深浅図」として幕府に提出した。
 嘉永3年(1850)、領内の楠屋鼻(津久見市)に台場 ( 砲台 )を築造した。
 嘉永6年(1853)、アメリカ使節ペリーが浦賀に来航し、開国を迫った。
 文久3年(1863)、殿ヶ礁(ばえ、下ノ江)、城内 本丸、臼杵洲崎 、琵琶ヶ鼻(板知屋・下り松)、竹ヶ鼻(天神ヶ鼻)、的場山(津留地区)の6か所に台場を築き、海防に備えた。
[参考:大分放送・大分歴史事典「長い二豊の海岸を防備」(後藤 重巳氏)

臼杵藩領の地図発見 伊能忠敬地図活用 砲台建設に利用か 臼杵市教委(西日本新聞) - goo ニュース

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