歴歩

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信楽町・玉桂寺 木造阿弥陀如来像を京都・知恩院に安置へ

2008年10月01日 | Weblog
 滋賀県甲賀市信楽町の玉桂寺(ぎょっけいじ)に安置される木造阿弥陀如来像(重文)は浄土宗の宗祖・法然(1133~1212)の高弟、源智(げんち)(1183-1238年)が、法然を供養するために作らせたとされる。この仏像を法然の廟所がある知恩院(京都市東山区)に法然八百年忌(2011年)を前に安置する計画が進んでおり、玉桂寺と知恩院を含む全国の浄土宗寺院をまとめる宗教法人「浄土宗」(宗務庁、東山区)が検討している。
 この仏像は高さ約1mで、1979年の調査で、法然が亡くなって約11カ月後の1212(建暦2)年12月24日付の源智の願文が胎内から見つかった。
 法然の思想が、自力の行(ぎょう)を励み、この世で悟りを開くことを目指す「聖道門(しょうどうもん)」から、阿弥陀を信じて念仏し、あの世で悟りを開こうとする「浄土門」に転換したことなどが記されている。
[9/30 京都新聞]

玉桂寺 (高野山真言宗・秋葉山十輪院玉桂寺)
 寺伝によれば淳仁天皇が平城宮から仮御所として造営した離宮「保良宮」跡(761-762)に空海が開いたというが確証はない。[参考:玉桂寺HP]

玉桂寺・木造阿弥陀如来像(重文)
 鎌倉時代・建暦2年(1212)作。像高98.6cm。
 本像は、昭和49年(1974)5月、文化庁・県教育委員会による文化財調査の際、鎌倉時代初期の仏師快慶の作風を伝える、安阿弥様(あんなみよう)の阿弥陀像として評価された。その後、昭和52年にX線写真撮影により、体内に納入品があることが確認された。翌年(1978)県指定文化財に指定され、さらにその翌年(1979)に像の解体が行われ、金箔が張られた内ぐり部から、14件の結縁交名(けちえんきょうみょう)が発見された。結縁交名には、同時に納入されていた「建暦2年12月24日 沙門源智敬白」と記された造像願文から、法然の弟子である源智上人が建暦2年(1212)に亡くなった法然の一周忌に際して三尺の弥陀像を造立し、像内に4万6千人の姓名を収め、極楽往生を願ったと記されていた。作風は快慶風であるが、作者は快慶本人ではなく弟子筋の仏師と推定される。昭和56年(1981)重要文化財に指定された。[参考:甲賀市HP、浄土宗HP]
 玉桂寺のHPでは、快慶の作のままになっている。行快作との説もある。

源智上人(1183~1238)
 鎌倉時代前期の浄土宗の僧。父は平師盛。
 法然が亡くなるまで18年間随侍し、法然の亡くなる直前に『一枚起請文(きしょうもん)』を授けられた。文暦元年(1234)知恩院を再興する一方で、百万遍知恩寺の基礎を築いた。著書に『選択要決』、『御臨終日記』(醐醍本所収)、『一期物語』(同)がある。[参考:浄土宗HP]

■2011.1.25 追記 その後の玉桂寺蔵・木造阿弥陀如来像(重文)
2011.1.25 京都市・知恩院 800年ぶり師弟対面・法然(御影)と源智発願の阿弥陀如来立像

2010.2.3 宗教法人浄土宗 (浄土宗宗務庁:京都府京都市、東山区) が1日、高野山真言宗・玉桂寺 (甲賀市信楽町) 所蔵の源智上人ゆかりの木造阿弥陀如来立像 (重文) を有償で浄土宗へ譲渡されたことが発表された。
当面は佛教大学の宗教文化ミュージアムで保管・研究され、2011年3月に京都国立博物館で開催されるの「法然展」に出展される。 [参考:2010.2.3ぐるっと京都、2010.2.1京都新聞]

2010.2.2 浄土宗は、高野山真言宗玉桂寺(滋賀県甲賀市信楽町)所蔵の源智上人ゆかりの木造阿弥陀如来立像(重文)の請来を受け、2月1日午前、玉桂寺で里見法雄浄土宗宗務総長導師により遷座式(仏像等の安置場所を移す際に行う儀式)を行った。
 今回の遷座は、法然上人の800回忌を迎えるのを機に、関係者と協議を進め、本年1月18日に玉桂寺から浄土宗に所有権を移す契約を締結したことにより執り行ったもの。[参照:浄土宗HP]

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