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長浜市・塩津港遺跡 平安時代末期の津波による痕跡か、一様に北側に傾いた柱跡が見つかる

2011年12月30日 | Weblog
 滋賀県長浜市西浅井町(注1)の塩津港遺跡(しおつこういせき)で、平安時代後期の神社跡から見つかった柱の多くが湖面とは逆の北側に傾いていたことが滋賀県文化財保護協会の発掘で分かった。 元暦2年(1185)8月(注2)に起きた地震(M7超)により琵琶湖で津波が発生し、湖岸の波が押し寄せた可能性があるという。 湖周辺にも多数の活断層が存在し、「方丈記」などの文献(注2)から、地震の発生はこれまでも指摘されてきたが、発掘で琵琶湖の津波とみられる痕跡が確認されたのは初めて。
 同協会によると、神社跡から11世紀半ば~12世紀末の門柱(直径約15cm)など約20本が見つかった。 地上部分は大半が欠けており、長さは地中に埋まっていた部分を含め約50cm。ほとんどが一様に約5~10度北側に傾いていた。
 また、2008年度に神社の周りにあった堀の北側で5体の神像が出土した件(注3)については、神像も津波で流され、堀に埋まったのではないかとみている。
 神社跡の地表の標高は 現在の琵琶湖水面より90cm(注4)ほど低いため、当時あった神社は 平安末期から江戸時代までの400年間に堆積した層がなく、神社は大地震による地盤沈下で湖底に沈んだと推定されるとしている。
 また、神社跡は湖岸から約100m内陸に立地し、神社跡の至る所で 地震による液状化で砂が地上に噴き上がる「噴砂」跡が見つかった。 液状化に伴う軟弱地盤の沈降が起きた可能性もある。
 これらの現象は、堅田断層などが活動して起きたと可能性があるとしている。
[参考:12.24中日新聞、12.29スポーツ報知、産経新聞]

(注1)2010年1月1日に、伊香郡西浅井町は長浜市西浅井町になった。
(注2)元暦二年(1185)七月九日(新暦8月13日)の大地震のこと
 『愚管抄』に、「午の時ばかり、なのめならぬ大地震ありき。古の堂のまろばぬは無し。(略)」
 『吉記』に、「午の刻大地震。洛中然るべきの家築垣皆頽れ、舎屋或いは顛倒、或いは傾倚す。打ち襲わるる死者は多く聞く。今度の地震に於いては殃に遇ざるの人無し。去る月二十日(注a)以後すでに以て連々、今日大動以て外□数十度、万人魂を消すものなり。(略)」
 『吾妻鏡』7月19日の条に、「地震良久。京都去九日午剋大地震。得長壽院。蓮華王院。最勝光院以下佛閣。或顛倒。或破損。(略)」
 『玉葉』に、「午刻大地震、古来雖有大地動事、未聞損亡人家之例、仍暫不騒之間、舎屋忽欲壊崩、(略)」
 『方丈記』に、「又同じころ(元暦二年(1185))かとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。(略)」
(注a)『吾妻鏡』元暦二年(1185)6月20日の条に、「天陰。夜半大地震。一時中動搖及數度」
 『玉葉』 同上に日に、「今夜子刻大地震4 4 4 、不異治承之例、可恐々々」
と予兆らしきものの記述がある。

 『吉記』7月29日の条に、「(略)。地震なお止まず。」
 『吾妻鏡』8月27日の条に、「午剋。御靈社鳴動。頗如地震。(略)」
 『方丈記』には、先の文章に続いて、「(略)。おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。(略)」
と余震が続いたことが記されている。

(注3) 2008.11.11 滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安時代の神像 5体出土
 平安末期―鎌倉初期の公卿・内大臣中山忠親日記「山槐記」には、近江地方で1185年に大地震が起き、琵琶湖の水位や水流も急変したと記されている。遺跡に近接する日吉神社(西浅井町月出)では、神像が高波で流されたとの伝承も残る。また遺跡は、現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低い。この地震で本殿が倒壊したのではないかと考えている。

(注4) (注3)では、遺跡は現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低いとしていたが、今回、遺跡の標高は 現在の琵琶湖水面より0.9mほど低いとしている。

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 塩津港遺跡

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