歴歩

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姫路市・向山遺跡 駅家「大市」の遺構などが見つかる

2015年10月30日 | Weblog
 兵庫県立考古博物館(播磨町)は29日、奈良時代に整備された山陽道(古代山陽道)の駅家「大市(おおいち)」の推定地である「向山(むかいやま)遺跡」(姫路市太市中、小字馬屋田(うまやだ))で、駅家の中心施設「駅館院(やっかんいん)」の礎石とみられる遺構などが見つかったと発表した。

<参考> 延喜式
播磨国駅馬: 明石30疋。賀古40疋。草上30疋。大市。布勢。 高田。 野磨各20疋。越部。中川各5疋。

[参考:神戸新聞、兵庫県教育委員会HP]

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 古代山陽道




キーワード: 姫路市・向山遺跡、古代山陽道
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本能寺の変後、長浜城から正室ねねらを救った広瀬兵庫助に感謝する秀吉直筆の花押のある手紙を発見

2015年10月30日 | Weblog
 滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館は29日、天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の際、長浜城にいた羽柴秀吉の母なか(大政所)と正室ねね(おね、北政所)らを避難させた家臣・広瀬兵庫助に感謝し、恩賞を与えると記した「羽柴秀吉・秀勝連署宛行状 広瀬兵庫助宛」文書が見つかったと発表した。
 文書の写しが存在し内容は既に知られていたが、9月に兵庫助の子孫の男性が原本を博物館に寄託した。
 これまでの研究では、本能寺の変が起きた時、秀吉は備中高松城(岡山市)を攻略していたが、ねねや母らの家族は居城の長浜城にいた。 翌日、本能寺の変の知らせが長浜城に届き、美濃国の土豪で家臣(注1)だった兵庫助は、ねねらを美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内広瀬)に逃がし、兵庫助の館に匿い助けた。(注2)
 その後、長浜城は明智勢に占拠された。
 文書は、ねねらが長浜城に帰った6月19日付。 秀吉の家臣の筆跡で「今回、女性たちと美濃へ行くのに尽力してくれてうれしい」と記し、恩賞として500石の領地を与えるとも書かれていた。秀吉直筆の花押もあった。
[参考:京都新聞、共同通信、産経新聞、中日新聞]


2015.10.31追記
その後いろいろ調べると、
(注1)この時、秀吉の家臣であったか疑問である。おそらく、恩賞を得た後に家臣となったのではないか。
(注2)美濃国広瀬村に逃げ匿うことを考えたが、途中、甲津原(米原)に逃げ隠れたらしい。



秀吉家族の逃避行、原本発見 本能寺の変直後、恩賞約束

本能寺の変直後に直筆、秀吉の書発見 11日から長浜城歴史博物館で公開

「女性たちを逃してくれた」秀吉が感謝の書状 本能寺の変で正室・ねねの逃避行を手助けした地侍に 滋賀
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