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京都市南区・平安京跡 「施薬院」「悲田院」が書かれた木簡が出土

2014年07月03日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が2日、南区東九条上殿田町の発掘調査で、平安京に置かれ、貧しい人々を救済した施設「施薬院(せやくいん)」と「悲田院(ひでんいん)」の名を記した平安前期(9世紀前半)の木簡17点が、文献上で施設があったとされる付近の平安京跡で出土したと発表した。
 「弘仁六(815)年三月十日」の日付が入った木簡には、表面に死亡した男女2人の氏名と性別のほか「左京人」と書かれていた。裏面に施薬院の田畑を耕すために雇っていた「客作児(きゃくさくじ)」4人が死亡したことが記してあった。木簡の上部には穴が開けられており、とじて保管する収容者の死亡報告とみられる。
 「武蔵國施薬院蜀椒壹斗(しょくしょういっと)」と記された木簡は、朝倉山椒(さんしょう)の別名「蜀椒(しょくしょう=サンショウ)」の荷札とみられ、武蔵国から施薬院に送られたことを示す。他にも「猪脂」(イノシシの脂)や「干薑(かんきょう=干しショウガ)」、「六物」など薬の材料となる物品や白米の荷札が含まれていた。
 また、「悲田院解 申請」と書かれた木簡は悲田院から施薬院へ上申した文書とみられる。 施薬院が悲田院を統括していたことがわかる資料としている。
 木簡が見つかったのはJR京都駅の約2~300m南で、平安京のほぼ東南隅に当たる地点(左京九条三坊十町)で、鎌倉時代の「九条家文書」によれば、周辺には施薬院の御倉や高級貴族の別宅があったとされている。 庭園の池の一部とみられる遺構が確認され、池の堆積物から木簡が土器とともに見つかった。
 すでに発掘調査は3月に終了している。木簡は3~21日に市考古資料館(上京区)で展示される。
[参考:時事通信、京都新聞、産経新聞、毎日新聞、日本経済新聞]

平安京の救済施設 活動実態示す木簡初出土 死亡者リストも?(産経新聞) - goo ニュース
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