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韓国全南順天市・雲坪里古墳群 500年前後の任那日本府説の4県の一つ娑陀から伽耶系の遺物が多量に出土

2012年04月20日 | 韓国の遺跡・古墳など
 昨日の聨合ニュース(日本版)は、「韓国・全羅南道・順天市の雲坪里古墳群(うんぴょんりこふんぐん、운평리 고분군)で任那日本府(임나일본부)説を覆す可能性のある遺物が出土した」と報じた。 順天大学校博物館が発掘調査中の伽耶の古墳から、6世紀初め頃のものとみられる大伽耶系の純金製耳飾りや馬具類、大刀、土器類など約200点が出土した。 雲坪里古墳群は紀元500年前後の同地域(注1)の支配層の墓であり、新たに出土した遺物は日本系のものでなく、伽耶系のものが大量に出土していることから、当時、任那4県のうちの一つだった同地域(注)が大伽耶と連盟関係にあったことを示す重要な資料としている。

 この記事に先立って、今年の2月14日に、やはり聨合ニュースは「順天市・雲坪里古墳群3次発掘調査に着手」と報じていた。
 5世紀後半から6世紀初期にかけて伽耶系古墳と評価される雲坪里古墳群では、2005-2008年に2回の発掘調査で封墳3基(1~3号墳)、土壙墓9基、石槨墓21基などが発掘された。
 特に長方形石室の埋葬主体部を中心にとして同心円上に12基の石槨墓が築造された2号墳では、金製耳飾り、大型器台など1千点余りの遺物が出土し、当時の順天地域最高首長層墓であることがわかった。 当時伽耶勢力と順天支配集団間の活発な政治的交流があったことを示す重要資料している。
 また、従来、全南東部地域は馬韓社会から百済につながる歴史性を持っていたと理解してきたが、雲坪里古墳群発掘調査では伽耶系墓と出土遺物からみて、馬韓社会から百済に渡る中間に全南東部地域が伽耶勢力と密接な関係を結んでいるということが確認されたとしている。
[参考:聨合ニュース]

(注1)任那4県とは、上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁であり、娑陀(サタ、사타)が現在の順天の地域に当る。
参考: 『日本書紀』
継体天皇六年(512)冬十二月。百濟遣使貢調。別表請任那國上哆唎。下哆唎。娑陀。牟婁四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰。此四縣近連百濟。遠隔日本。旦暮易通。鷄犬難別。今賜百濟合爲同國。固存之策無以過此。然縱賜合國。後世猶危。况爲異場幾年能守。大伴大連金村具得是言。同謨而奏。迺以物部大連麁鹿火宛死宣勅使。物部大連方欲發向難波館宣勅於百濟客。其妻固要曰。夫住吉大神。初以海表金銀之國。高麗百濟新羅任那等。授記胎中譽田天皇。故大后氣長足姫尊。與大臣武内宿禰。毎國初置官家。爲海表之蕃屏。其來尚矣。抑有由焉。縱削賜他違本區域。綿世之刺、詎離於口。大連報曰。教示合理。恐背天勅。其妻切諌云。稱疾莫宣。大連依諌。由是改使而宣勅。付賜物并制旨。依表賜任那四縣。大兄皇子前有縁事不關賜國。晩知宣勅。驚悔欲改。令曰。自胎中之帝置官家之國。輕随蕃乞。輙爾賜乎。乃遣日鷹吉士。改宣百濟客。使者答啓。父天皇圖計便宜勅賜既畢。子皇子豈違帝勅妄改而令。必是虚也。縱是實者。持杖大頭打。孰與持杖小頭打痛乎。遂罷。於是或有流言曰。大伴大連與哆唎國守穗積臣押山受百濟之賂矣。

欽明天皇元年(540)九月乙亥朔己卯。幸難波祝津宮。大伴大連金村。許勢臣稻持。物部大連尾與等從焉。天皇問諸臣曰。幾許軍卒伐得新羅。物部大連尾與等奏曰。少許軍卒不可易征。襄者男大迹天皇六年。百濟遣使表請任那上哆唎。下哆唎。娑陀。牟婁四縣。大伴大連金村輙依表請許賜所求。由是新羅怨曠積年。不可輕爾而伐。於是大伴大連金村居住吉宅。稱疾不朝。天皇遣青海夫勾子。慰問慇懃。大連怖謝曰。臣所疾者非餘事也。今諸臣等謂臣滅任那。故恐怖不朝耳。乃以鞍馬贈使厚相資敬。青海夫人依實顯奏。詔曰。久竭忠誠。莫恤衆口。遂不爲罪。優寵彌深。☆是年也太歳庚申。

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