歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

京都市・松尾大社の摂社・末社から平安・鎌倉期の神像17体発見 1体に「康治二年」「(秦)頼親」の文字

2011年08月23日 | Weblog
 京都市西京区の松尾大社は23日、同神社周辺の摂社、末社にまつられていた平安時代後期から鎌倉時代の神像17体(いずれも高さ約30cm~50cmの木像)が発見されたと発表した。
 男神像、女神像のほか僧形像などがあった。 櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ、西京区)に祀られていた女神像1体の底には、墨書で制作年とみられる康治二年(1143)の文字があり、当時の松尾大社神主だった「秦頼親(はたよりちか)」の名も記されていた。
 大宝元年(701)創建の松尾大社には、一木彫りでは国内最古級とされる平安時代前期の神像3体(重要文化財)がある。
[参考:京都新聞、共同通信、産経新聞]

備考
A. 櫟谷宗像神社
 櫟谷神社(祭神:奥津島姫命)、宗像神社(祭神:市杵島姫命)とも、往時は嵐山にそれぞれに独立した社殿があった。 櫟谷神社は『延喜式』神名帳に『松尾末社』と注を付される由緒ある式内社である。 奈良時代大宝年間(701-704)から鎮座されているという。
古文献に、
『続日本後記』 嘉祥元年(848)11月 「奉授山城國無位櫟谷神從五位下」
『三代実録』 貞観十年(868)閏12月10日 「授山城國從五位下櫟谷神正五位下」
『三代実録』 貞観十二年(870)11月17日 戸近於葛野鑄錢所宗像。櫟谷。清水。堰。小社五神。奉鑄錢所新鑄錢。
『百錬抄』 仁治二年(1241))8月7日 櫟谷宗形両社焼亡。
と記されている。

B. 松尾社一切経
 本門法華宗大本山妙蓮寺(京都市上京区)には、平安時代後期に松尾大社で書写された3500巻余りの『松尾社一切経』が所蔵されている。 松尾大社の神主であった秦親任・頼親父子等発願により、永久3年(1115)から康治2年(1138)にかけて書写されたものである。

2011.12.1追記
 京都市西京区の松尾大社で、平安時代後期から鎌倉時代にかけて制作された神像全18体(男神8体、女神7体をはじめ、僧をかたどった像など)を展示する「秋の特別展」が開かれている。4日まで。[参考:産経新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山形県大石田町・駒籠楯跡 水駅「野後駅」の可能性がさらに高まる、1辺1mの柱穴の大型建物跡を確認

2011年08月23日 | Weblog
 平安時代の伝令制度で、最上川を利用した水駅(すいえき)「野後(のじり)駅」の跡と推測されている大石田町の「駒籠楯跡」で21日、発掘調査説明会が開かれた。(地元住民ら約50人が参加。)
 駒籠楯跡は中世の城館跡として知られ、1998年に大石田町教委が平安時代の遺構を発見。都からの使者の中継地で、馬と船が置かれた川の「水駅」(船が停泊する水路の宿場)の可能性が指摘された。県教委は2007年度から調査を実施し、これまで竪穴建物跡や掘っ立て柱建物跡、塀跡など多くの遺構を確認し、「野後駅」である公算が大きいとされてきた。
 本年度の調査(8月31日まで)は今月8日から遺跡の西側で行い、6カ所すべてで新たに柱跡や溝跡などが見つかった。中でも、南側に庇を持つと思われる大型の建物跡を確認した。柱間約2m、柱穴は1辺が約1mであることから、これまで発見された建物の中で一番大きく、格調も高い、施設の中心的な建物があったと考えられるという。 このことから、遺跡が「野後駅」跡である可能性がさらに高くなったと報告された。
[参考:山形新聞]

過去の関連ニュース・情報
2008.2.25 山形県大石田町駒籠の遺跡平安時代の水駅「野後駅」か
 掘立柱建物跡2基(8世紀)、掘立柱建物跡と思われる複数の遺構(9世紀)、竪穴住居跡2基、土器片が約90点出土。
[参考:山形新聞]

備考
延喜式によると、
出羽国駅馬 最上十五疋。 村山。野後各十疋。 避翼十二疋。 佐芸四疋。船十隻。 遊佐十疋。 蚶方。由理各十二疋。 白谷七疋。 飽海。秋田各十疋。 伝馬 最上五疋。 野後三疋。船五隻。 由理六疋。 避翼一疋。船六隻。 白谷三疋。船五隻。
と記され、出羽国には船を持つ駅が佐芸(さけ)、野後(のじり)、避翼(さばね、あるいは、さるはね)、白谷(しらや)の4駅あり、野後駅には船5隻があったとしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする