goo blog サービス終了のお知らせ 

歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

仙台市・鴻ノ巣遺跡 古墳時代後期の墓から刀を胸の前で抱える埋葬

2008年11月08日 | Weblog
 市教委は5日、仙台市宮城野区岩切の鴻ノ巣(こうのす)遺跡で、古墳時代の二つの遺構から遺物が出土したことを発表した。
 古墳時代中期(5―6世紀)の遺構から、火事で焼失した大型の竪穴住居跡(約7m四方)が出土した。地面から80―100cm下の地層で発見。火災に遭い炭化した柱や、かまど周辺からは高さ約30cmの甕、蒸し器などが発掘された。鴻ノ巣遺跡の竪穴住居跡では最大クラスで、集落の長の住居だった可能性があるとしている。
 住居跡東側で、古墳時代後期(6世紀ごろ)の墓(長さ約160cm、幅約90cm)から、人の下あごの骨と歯と胸付近の骨が、約30cmの鉄の刀とともに見つかった。刀は胸の位置で見つかり、体に触れていた面には被葬者の骨が付着していた。刀を胸の前で抱える形で埋葬されたとみられる。副葬品から村長(むらおさ)級の人物と見られるが、年齢や性別は今後、専門機関などで調査する。
 発掘調査は第9次調査で、2005年度から県の河川改修に伴って実施。古墳時代中期(約1500年前)から鎌倉時代(約800年前)に至る人々が暮らしてきた痕跡が4つの地層で見つかっている。
 遺跡見学会は8日午後2時から行われる。
[参考11/6:河北新報、11/8読売新聞、仙台市]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡

2008年11月08日 | Weblog
 県が発掘調査を進める旧練兵場遺跡(仙遊町、善通寺病院敷地内)で、8日午後1時半から現地説明会が開かれる。
 新たに見つかった弥生時代後期の竪穴住居跡の構造から、九州地方からの移住者の存在を県内で初めて確認した。
 同遺跡は、弥生時代中期から古墳時代にかけての竪穴住居跡が多数発見されている県内最大規模の集落遺跡。
 同センターによると、同遺跡ではこれまで、7本程度の柱で支える円形の竪穴住居跡が見つかっていた。本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたことを示しているという。
[参考:11/8四国新聞]
 同遺跡は、同市仙遊町と善通寺町にまたがる旧陸軍練兵場跡地にある、広さが約42㌶と推定される弥生時代中期―古墳時代の全国的に有数の古代の大規模集落跡。現在までに、発掘調査で出土した祭器として使用された平形銅剣などの青銅器が周辺で大量に見つかっていることから、丸亀平野で祭祀の中心的な役割を持った拠点的集落である可能性がある。
 また弥生中期以降、他地域からの人口の流入により大規模な集落に発展したと考えられる。周辺の山から前方後円墳が発見されていることなどから、大集落を支配する権力者がおり、丸亀平野全体を統括する「王」の存在は確認できないが、集落の規模などから中心的な役割を担っていたらしい。
[参考:2000/10/15四国新聞]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長岡京市・南栗ケ塚遺跡 縄文前期の竪穴式住居跡確認 府内2例目

2008年11月08日 | Weblog
 長岡京市埋蔵文化財センターは7日までに、同市久貝の南栗ケ塚遺跡をから縄文時代前期の竪穴式住居跡を確認した。
 縄文前期の竪穴式住居跡は近畿5例目、府内でも2例目と少なく、京都盆地南西部の縄文文化の拠点とみられるという。
 南栗ケ塚遺跡は、旧石器から江戸期の複合遺跡で、縄文時代についてはこれまでに晩期の遺物が確認されていたものの前期の出土がなかった。今回見つかった竪穴式住居跡は、ほぼ円形で直径約3.8m。壁柱や支柱の穴を6つ確認したほか、建て替えたとみられる柱穴もあった。
 調査地では、ごみ捨て場と見られる場所から焼けた動物の骨などが見つかった。また縄文前期の爪形紋土器片や狩猟用の石鏃など石器片も多数出土した。
 市埋蔵文化財センターによると、京都府内の縄文前期の竪穴式住居跡は木津川市の例幣遺跡で確認されているといい、出土遺物が大量にあることから、ほかにも何棟か住居跡がある可能性があり、重要な集落だったのではとする。
[参考:京都新聞]

 同遺跡は、長岡京の南端側、桂川の支流・小畑川を1kmほど上がった右岸に位置し、北西500m位のところには恵解山古墳がある。さらに川を約4kmほど上ったところ、長岡京北西端側には縄文時代晩期中頃の堅穴式住居跡が見つかった上里遺跡(長岡京市井ノ町、西京区上里南ノ町)がある。

恵解山古墳
 この地域最大の前方後円墳 全長180m、墳丘長128m、後円部径78m、高さ8m以上、後方部幅76m位、5世紀半ば築造
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イラン北西部に13世紀ごろの仏教石窟、龍谷大調査隊が発表

2008年11月08日 | Weblog
 龍谷大(京都市)のアフガニスタン学術研究プロジェクト(団長・入澤崇教授)は7日、イラン北西部のトルコ国境に近いマラゲー近郊にある半地下式の石窟、ヴァルジュヴィ遺跡で、「13世紀ごろに造営された仏教寺院とみられる石窟を確認した」と発表した。仏像や壁画などは見つかっていない。
 同遺跡は、仏教遺跡の西限とされたイラン北東のトルクメニスタンからさらに約1400km西に位置しており、仏教寺院と確認されれば、現在のイスラム圏での過去の仏教の広がりについて大幅な見直しを迫ることになる。成立時期がアフガニスタン・バーミヤンなどで仏教文化が栄えた時期(1~6世紀)と大きく異なっており、仏教の西限を考える上で重要という。
 地下の岩盤を彫り込んだ石窟には9つの部屋があり、うち大小2つの部屋の壁などに窪みが18個あるのが確認された。形状が、仏像を安置したり、仏画を描いて礼拝したりする仏龕(ぶつがん)と似ており、参拝した信者が周りを巡るための柱があるという構造が中国のシルクロード沿いにある石窟寺院と共通しているため、仏教遺跡と判断したという。
 このうち約9m四方の大きな部屋には、八角形の巨大な柱があり、その表面などに11個の仏龕が彫られていた。龕は最大のもので高さ67cm、幅45cm、奥行き29cm。
 チンギス・ハンの孫のフラグは、モンゴルから西アジアに遠征しイスラムのアッバース朝などを滅ぼしてイル・ハン国(1258~1353)を建国した。マラゲーは首都だったタブリーズに近く、付近にはモンゴル人の拠点があったとみられている。駐屯軍として多くのモンゴル人たちがイランにとどまり、仏教もこのとき同時に持ち込まれたとみられる。
 イル・ハン朝はイスラム教に改宗する前、チベット仏教を信仰しており、古代のミトラス教の寺院が、モンゴル帝国で信奉されたチベット系仏教の寺院に改造されたのではないかとみられる。モンゴルの西征に伴い、チベット系仏教が西に広がったのではないかとする。
[参考:時事通信、読売新聞、毎日新聞、産経新聞]
イラン北西部に13世紀ごろの仏教石窟、龍谷大調査隊が発表(読売新聞) - goo ニュース
イランで仏教遺跡を初確認=モンゴル帝国の名残か-龍谷大(時事通信) - goo ニュース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする