こんばんは、ヨン様です。
まずは表題に関連して、皆さんに質問をしたいと思います。
皆さんは、「槍(やり)」という言葉をご存知でしょうか。
おそらく、ほとんどの方は知っているでしょう。
なぜ、私たちは「槍」という言葉を知っているのでしょうか。
私は、いつ「槍」という言葉を覚えたのか、全く覚えていません。
成長してから知るような難しい言葉の中には、「あのとき辞書で読んだ」というように、言葉を覚えた時のことを記憶していることもあるでしょうが、おそらく「槍」という言葉の場合、ほとんどの方はそのような記憶すら怪しいくらい、幼い頃に習得したのではないかと思われます。
そうすると、「槍」という言葉は私たちにとってごく当たり前の語であり、先の質問は「なぜ「手」という言葉を知っているのか」というのと同じくらい当たり前の質問というふうになってしまうかもしれません。
目の前にあるのだから、それを知らずのうちに覚えてしまうのは自然なことだというわけです。
「槍」という言葉がその習得を反省することすら無意味に思えるくらいに当たり前の言葉であるということ自体は、正しいのかもしれません。
しかし、よく考えてみてください。
「槍」という“もの”は、私たちにとって当たり前のものでしょうか?
日常の生活を見渡して、果たして「槍」と呼べるものが私たちの周りに存在するでしょうか?
おそらく、ほとんどの人はドラマやゲームで「槍」を見たことがあっても、実物の「槍」を見たことはないのではないかと思います。
少なくとも私には、「手」などの語と同程度に当たり前のものであるとは到底思えません。
つまり、私たちは「槍」という“もの”を見たこともないのに、知らず知らずのうちに「槍」という語を習得してしまっているのです。
これは、「手」や「鍋」、「犬」、「海」などが現実に確認できるのとは、大きく違っています。
「槍」という言葉が、私たちの日常の口端にのぼることはほとんど皆無のはずだからです。
私たちが「槍」という言葉だけを知っているのは、現実に考えると、実に不思議なことだと言えます。
このように、日常生活との対応関係を喪失しかけている語はたくさんあります。
「鎌」、「鍬(くわ)」、「斧」などの農具類、「刀」、「剣」、「盾」などの武器類、「谷」、「沼」などの自然地形類が挙げられるでしょう(もちろん地域差はあるでしょうが、少なくとも都市部の生活ではほとんど見ることはありません)。
これらは、現代の日常生活において使用し、具体的な“もの”を指し示すことはあまりありません。
その意味で、「モーレツ」などといった流行語よりもはるかに速いスピードで死語になってもよさそうなものですが、実際にはこれらの語が死語として扱われることはないでしょう。
なぜ私たちがこれらの言葉をほぼ例外なく知っているのかというのは、かなり難しい問題です。
近年までは使っていたからとか、フィクションやテレビ等の情報媒体の影響があるからとかいった説も考えられないことはありませんが、十分な証拠はないように思われます。
疑問をふっかけておいてなんですが、私もよくわかりません。
「槍」なんてのは近代以降日常的に使うものではなくなっていたようにも思えますし、「どてら」や「コークス」のように、最近(?)まで使われていたもので急速に理解語彙から外れているように思える言葉もあります。
なにかしらの一般化ができるかどうかは、相当怪しそうです。
もしかしたら、言葉には「日常使われているかどうか」とは別の生かされ方があるのかもしれません。
それが社会的な使われ方に起因するものなのか、言葉そのものに起因するものなのかは分かりませんが、普段目にしないものすらも知ることができるというのは、人間が持つ言語ならではのわざだといえるでしょう。
それでは!
まずは表題に関連して、皆さんに質問をしたいと思います。
皆さんは、「槍(やり)」という言葉をご存知でしょうか。
おそらく、ほとんどの方は知っているでしょう。
なぜ、私たちは「槍」という言葉を知っているのでしょうか。
私は、いつ「槍」という言葉を覚えたのか、全く覚えていません。
成長してから知るような難しい言葉の中には、「あのとき辞書で読んだ」というように、言葉を覚えた時のことを記憶していることもあるでしょうが、おそらく「槍」という言葉の場合、ほとんどの方はそのような記憶すら怪しいくらい、幼い頃に習得したのではないかと思われます。
そうすると、「槍」という言葉は私たちにとってごく当たり前の語であり、先の質問は「なぜ「手」という言葉を知っているのか」というのと同じくらい当たり前の質問というふうになってしまうかもしれません。
目の前にあるのだから、それを知らずのうちに覚えてしまうのは自然なことだというわけです。
「槍」という言葉がその習得を反省することすら無意味に思えるくらいに当たり前の言葉であるということ自体は、正しいのかもしれません。
しかし、よく考えてみてください。
「槍」という“もの”は、私たちにとって当たり前のものでしょうか?
日常の生活を見渡して、果たして「槍」と呼べるものが私たちの周りに存在するでしょうか?
おそらく、ほとんどの人はドラマやゲームで「槍」を見たことがあっても、実物の「槍」を見たことはないのではないかと思います。
少なくとも私には、「手」などの語と同程度に当たり前のものであるとは到底思えません。
つまり、私たちは「槍」という“もの”を見たこともないのに、知らず知らずのうちに「槍」という語を習得してしまっているのです。
これは、「手」や「鍋」、「犬」、「海」などが現実に確認できるのとは、大きく違っています。
「槍」という言葉が、私たちの日常の口端にのぼることはほとんど皆無のはずだからです。
私たちが「槍」という言葉だけを知っているのは、現実に考えると、実に不思議なことだと言えます。
このように、日常生活との対応関係を喪失しかけている語はたくさんあります。
「鎌」、「鍬(くわ)」、「斧」などの農具類、「刀」、「剣」、「盾」などの武器類、「谷」、「沼」などの自然地形類が挙げられるでしょう(もちろん地域差はあるでしょうが、少なくとも都市部の生活ではほとんど見ることはありません)。
これらは、現代の日常生活において使用し、具体的な“もの”を指し示すことはあまりありません。
その意味で、「モーレツ」などといった流行語よりもはるかに速いスピードで死語になってもよさそうなものですが、実際にはこれらの語が死語として扱われることはないでしょう。
なぜ私たちがこれらの言葉をほぼ例外なく知っているのかというのは、かなり難しい問題です。
近年までは使っていたからとか、フィクションやテレビ等の情報媒体の影響があるからとかいった説も考えられないことはありませんが、十分な証拠はないように思われます。
疑問をふっかけておいてなんですが、私もよくわかりません。
「槍」なんてのは近代以降日常的に使うものではなくなっていたようにも思えますし、「どてら」や「コークス」のように、最近(?)まで使われていたもので急速に理解語彙から外れているように思える言葉もあります。
なにかしらの一般化ができるかどうかは、相当怪しそうです。
もしかしたら、言葉には「日常使われているかどうか」とは別の生かされ方があるのかもしれません。
それが社会的な使われ方に起因するものなのか、言葉そのものに起因するものなのかは分かりませんが、普段目にしないものすらも知ることができるというのは、人間が持つ言語ならではのわざだといえるでしょう。
それでは!