ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

中都会の片隅で活動する8~10人組コーラスグループ、ザ☆シュビドゥヴァーズの日常。
あと告知とか色々。

調子の良いときほど

2016-02-10 22:39:10 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


生きていれば調子の良いときと悪いときとがあるかと思います。
これは合唱に限らず、スポーツや勉強についても同じです。

私は中学校と高校で陸上競技の長距離をやっていましたが、調子の良いときは体も軽く普段は辛く感じる練習も難なくこなすことができました。
勉強の場合は陸上競技のような完全に中立的な評価は難しい(テストごとに難易度が違う)ですが、やはり同じように誰にでも調子の良いときと悪いときとを実感することができるのではないでしょうか。

取り組みの内容を問わず、好調のときは自分でも驚くほどの結果を残せたり、妙な高揚感があったりするものです。
もちろん、逆に調子の悪いときには、今まで当たり前のようにできていたことが急にできなくなってしまったりして、自分に対して大きく失望してしまったりすることもあります。
いわゆるスランプに陥ったときというのはまさに不調の状態にいるわけで、そのうえ自分自身ではコントロールできないためにとてももどかしい思いをすることになります。
なので不調になってしまったときは、いろいろと試行錯誤して、もがいて、なんとかその脱しようと努力するわけです。

ただ気を付けなければいけないのは、そういった努力というのは、なにも調子が悪いときにだけ実践すればそれで安全だというわけではないのではないか、という点です。
好不調の波が谷間に差し掛かってしまったとき、つまり不調に陥ったときにそこから抜け出そうとあらゆる手段を尽くすのはいわば当然のことです。
「あらゆる手段」というのは、あえて対象と関わらないことで積極的な回復を目指すというような場合も含んでいて、例えばオリンピックのトップアスリートが長い期間にわたって競技から離れたりするのがそれに該当します。
問題が顕在化したときにそれをなんとかしようとするのは、多少なりとも誠意のある人ならばしかるべくしてそのような態度をとるといえるでしょう。

しかし、そもそもそのような不調の波が訪れたのはなぜかと考えると、多くの場合好調の期間にその原因が見出せたりするのです。
例えば、好成績を残せたことでそれまで続けていた努力を怠ってしまったりだとか、体を酷使しておきながらケアをしなかったために故障につながってしまったりだとか、いろいろな要因が想定できます。
好調な期間というのは、自身のポテンシャルを引き出している時期でもあるので、むしろ成長の途上にあったりいつもより心身を酷使していたりする可能性が高いといえます。
つまり、好調の波の中にあるときにこそ、自分の心身に対する配慮を惜しんではいけないのではないかと思われるのです。

私自身もうまく走れたレースの後に故障が悪化してしまったりということがありましたが、思えばその原因はある種の慢心にあったような気がしています。
好成績を残したことで自分自身の身体能力を過信し、オーバーワークをさせてしまっていたということも十分に考えられるでしょう。
そんなこともあって、今では好調なときほど自分の体を大切にすべきであると考えるようになりました。

とはいえ、調子が良いときに一切の慢心を排するというのは並大抵のことではありません。
好調の波の中にあるときには、余裕からくる油断と安心から、視野が狭くなりがちです。
なので、調子が良いとき、自分が何を忘れてしまっているのかを常に問い直していくことは、自分が取り組んでいるものに対する誠意を尽くすという意味において、非常に大切なプロセスになってくるのではないかと思います。


「それができれば苦労しないよ!」って話ですが、まぁ、そういうことを積み重ねながら立ち止まったり進んだりしていくしかないんでしょうね。
慢心せずにやっていきたいものです。

それでは!