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file .257 Clete BOYER 【クリート・ボイヤー】

2008-07-29 | ABC
【名手、日本へ】
Clete BOYER

名三塁手ケン・ボイヤーを兄に持つクリート・ボイヤーは、
18歳の若さでメジャーデビュー。
アスレチックスで47試合に出場し打率.241をマークした。

ブレークしたのは1960年、
ヤンキースへ移籍してからであった。
この年打率.242、14本塁打、46打点、
打撃は荒いものの、ケンと同じ三塁手として、
兄を凌ぐ守備力を見せ、チームのリーグ優勝に貢献した。

1961年、球界がロジャー・マリスの『61』に湧いた年、
ボイヤーは打率.224、11本塁打、55打点をマーク。
明けて62年は打率.272、18本塁打、68打点と
勝負強い打撃を見せ、ヤンキースの2年連続の
世界一に大きな貢献を果たす。

内野の要として
王朝ヤンキースを支えたボイヤー、
64年には、兄ケンの在籍するカージナルズとワールド・シリーズで相まみえ、
惜しくも世界一は逃したものの、
第7戦で兄弟アベックホームランを達成した。

67年、ブレーブスへ移籍、
この年、打率.245、26本塁打、96打点をマーク。
以降も、同僚の大打者ハンク・アーロンらと共に、
攻守にわたって、チームを支えた。

が、そんなボイヤーに大きな転機が訪れる。
1971年、チームを批判する発言をかましたボイヤーは、
シーズン途中で解雇されてしまい、
他球団からの誘いも無く、
ハワイの独立リーグでプレーする事になってしまったのだ。

そんなボイヤーに熱い視線を送っていたのが
日本のホエールズの海外スカウト牛込惟浩氏であった。

牛込氏からスカウトされたボイヤーは
72年からホエールズ三塁手としてでプレー。
4年間で打率.257、71本塁打、218打点をマークすると共に
卓越した守備力で多くの選手、ファンをうならせた。
現役引退後も日本に残り、その技術を後身に伝授した。

その後、アスレチックスやヤンキースのコーチを勤め、
2007年、アトランタにて死去。

メジャー通算1396安打、162本塁打、654打点、打率.242。


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