藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

「紫うまごやし」

2021-06-30 09:35:03 | 日記・エッセイ・コラム

 「NATU」様のブログを拝見していて、小学生の頃を思い出した。 戦後の食糧難の時代で、特に我が家は貧乏だった。 満州から逃げ帰った一家は、どこも同じように苦労していたようだ。 通っていた小学校の西側の谷筋に、「市川牧場」という、小さな牧場が有った。戦争中は軍馬と、乳牛を飼って、軍に収めていたそうだ。 広島近郊には、有名な「チチヤス」牛乳を始めとして、四つの牧場が有ったそのうちの一つだった。 その牧場には、「紫うまごやし」や、「しろつめ草」が咲いていて、近所の女の子が、冠や首飾りを作って遊んでいた。 その谷の先には、あまり人が行かなかったが、ある時学校帰りに行ってみたくなり入ってみた。 牧場の先の藪を抜けると、宮島までが見渡せる場所に出た。 そこは、地山を削り取った様な段々畑で、見るからに痩せ地であった。 後に知ったのはその土で、「庚午新開」と言う新しい埋め立て地が作られたのだそうだ。 天明の飢饉から明治3年にかけての事である。 その残地の段々畑で作業していたご婦人は、私の知っていた方で、ご主人は戦死されたと聞いていた。 私より、7-8歳年上の女の子も、手伝って作業されていた。 その段々畑の幾枚かは、「苜蓿」と「白爪草」が咲き乱れていた。 それは開墾した畑を、肥沃にするために植えてあることを知ったのは、随分後の事である。 高い山の上まで下肥をもって上がるのは重労働だ。 そこで、「苜蓿」や「白爪草」の球根バクテリアで、土地の改良をしていたのだ。 そこにはヤギが二匹繋がれていて、丸々と肥えていた。 股間には大きな乳房が有り、乳をタップリ貯めているのが判った。 顔見知りでない私には、角を向けてきたが、直ぐに慣れて、背中など茅草を束ねたもので、こすってやると喜んで居た。 その事は、父方の親戚に夏休みに行った時覚えて業だ。 その後、土曜日などよくこの道から帰宅し始めた。 植えてあるのが、サツマイモ、ジャガイモなどが主であった。 そのジャガイモで知った事が有る。 ジャガイモに実が成る事だ。 しかも食べられるという事だ。 その話を学校でしたら馬鹿にされた。 生徒の半数は農家だったが、ジャガイモの実を食べた事は無いという。 食べたら死ぬから、食べてはいけないと教わっているという。 同級生の家の畑に出かけて、食べて見せた。 みんなびっくりしていたが、これには秘密が有ったのだ。 ジャガイモの実も、熟して軟らかくなり、少し黄色くなると、毒が無くなり食べれるのだ。 「少しだけ甘く、少しだけ酸っぱい」あまりおいしいとは言えないが、水分は十分にあり、喉の渇きはいやしてくれるのだ。 これは段々畑での作業の知恵なのだ。 勇気がある方、一度お試しあれ。