藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と影

2012-07-31 21:52:29 | 社会・経済

Photo 万代橋袂にある、説明版です。万代橋は、近年架け替えられました。

先代の万代橋は、別名県庁橋、又は、この説明版にはありませんが、陸軍病院橋とも言われておりました。理由は、市内電車で、市役所前で下車し、西に向かうと北側が県庁、南側が陸軍病院でした。

そこからこれ等の名前が付けられ、日常的に使用されていました。

万代橋の読み方が難しかったためです。正式には、「よろずよばし」と読み、別名「ばんだいばし」市民はいろいろに呼んだようです。どの写真もクリックしてみてください。

橋の表面に、欄干の陰がアスファルトに焼け付いています。アメリカ軍は、この橋をはじめ市内のこのように影が焼きついた痕跡から、「猿楽町 島外科病院 上空」を爆心地と計算しました。この他にも、墓石の倒れた方向や、倒壊した家屋の中で火災を免れた物等から計算されたのです。

Photo_2 今日、平和公園は6日の式典の準備の最中で、テントが設営されていました。

嘗てはテントなど無く、昭和20年8月6日と同じ暑さの中で、式典が行われていました。式典で暑さに倒れる遺族の存在を知った「理容」「美容」の関係者と、徒弟制度の中で働く若者が、仕事で使うタオルを氷で冷やし、参列者に貸し出していました。

こうした光景も今日ではなくなりましたが、嘗て、広島の「理美容青年会」の式典での活躍が偲ばれて、しばし佇み準備作業を見ておりました。

その横、正面左に一つの歌碑があります。平和公園内にあるただ一つの歌碑です。

Photo_3 湯川秀樹博士から、青銅の像が寄贈されました。この像の設置場所を考えた浜井信三市長は、「平和の泉」の正面左に場所を選定し、嘗て博士が読まれた歌を台座に刻み、平和公園の「結界」としました。

Photo_5 まがつびよ

ふたたびここにくるなかれ

平和をいのる人のみぞここは

                   湯川 秀樹

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原子爆弾とローマ法王

2012-07-30 21:38:02 | 社会・経済

Photo_2 平和大通りから平和公園に入るとすぐに「平和の泉」がある。

この噴水は、水を求めて死んでいった被爆者に捧げる水である。

この噴水の正面に原爆資料館が有り、その一階の吹き抜け部分から

原爆死没者の慰霊碑

平和のともし火

その向こうに、原爆ドームが一直線上に並んでいる。

008_2 その中心線から左に少し外れて

原爆の子の像は建っている。

この慰霊塔だけが何故外されたのかについてはいろいろな説が存在するので今回は触れないでおくことにする。

1981年 2月25日広島に教皇 ヨハネ・パウロ2世が降り立った。

教皇は、平和公園で全世界に向けて、「アピール」を発した。

以下は、その全文である。

戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。 この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。
 もはや切っても切れない対をなしている2つの町、日本の2つの町、広島と長崎は、「人間は信じられないほどの破壊ができる」ということの証として、存在する悲運を担った、世界に類のない町です。
 この2つの町は、「戦争こそ、平和な世界をつくろうとする人間の努力を、いっさい無にする」と、将来の世代に向かって警告しつづける、現代にまたとない町として、永久にその名をとどめることでしょう。

本日、わたしは深い気持ちに駆られ、「平和の巡礼者」として、この地にまいり、非常な感動を覚えています。わたしがこの広島平和記念公園への訪問を希望したのは、過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことだ、という強い確信を持っているからです。
 この地上のありとあらゆるところに、戦争のもたらした惨事と苦しみのゆえに、その名の知られている場所が数多く、あまりにも数多く、存在しています。それは、人類の犯した悲しむべき行為だといわねばなりません。戦勝記念碑-- それは一方の側の勝利の碑であると同時に、数多くの人々の苦しみと死を物語るものです。国のために命を落とした人々、崇高な目的に命をささげた人々が横たわる墓地があります。同時に、戦争のもたらす破壊の嵐の中で命を失った、罪のない一般の人々が横たわる墓地もあります。強制収容所や死体処理場の跡-- そこでは、人間と侵すべからざる人権とがいやしめられ、野卑と残酷とが最も強く表されたところでした。戦場-- そこでは、自然が慈悲深く地上の傷をいやしていますが、人間の憎悪と敵意の歴史を消し去ることはできません。こうした数多くの場所や記念碑の中でも、特に広島、長崎は、核戦争の最初の被災地として、その名を知られています。
 あの陰惨な一瞬に生命を奪われた、数多くの男女や子供たちのことを考えるとき、私は頭をたれざるをえません。また、身体と精神とに死の種を宿しながら、長い間生き延び、ついに破滅へと向った人々のことを思うときにも、同様の気持ちに打たれるのであります。この地で始まった人間の苦しみは、まだ終わっていません。人間として失ったものが、全部数え尽くされたわけではありません。人間の考えやものの見方、ないし人間の文明に対して、核戦争がもたらした実害を目のあたりにし、将来の危険性を考えるとき、特にそうした想いに駆られるのであります。
過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。広島市の皆さんは、最初の原子爆弾投下の記念碑を、賢明にも平和の記念碑とされました。わたしは、この英断に敬意を表し、その考えに賛同します。平和記念碑を造ることにより、広島市と日本国民は、「自分たちは平和な世界を希求し、人間は戦争もできるが、平和を打ち立てることもできるのだ」という信念を力強く表明しました。この広島でのできごとの中から、「戦争に反対する新たな世界的な意識」が生まれました。そして平和への努力へ向けて新たな決意がなされました。
 核戦争の恐怖と、その陰惨な結末については、考えたくないという人がいます。当地でのできごとを体験しつつも、よく生きてこられた人々の中にさえ、そう考える人がいます。また、国家が武器を取って戦い合うということを、実際に経験したことのない人々の中には、核戦争は起こりえないと考えたがる人もいます。さらに、核兵器は力の均衡を保ち、恐怖の均衡を保つため、いたし方のないものだとする人もいます。しかし、戦争と核兵器の脅威にさらされながら、それを防ぐための、各国家の果たすべき役割、個々人の役割を考えないですますことは許されません。

過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。1945年8月6日のことをここで語るのは、われわれがいだく「現代の課題」の意味を、よりよく理解したいからです。あの悲劇の日以来、世界の核兵器はますますふえ、破壊力をも増大しています。核兵器は依然として製造され、実験され、配備されつづけています。全面的な核戦争の結果がいかなるものであるか、想像だにできませんが、核兵器のごく一部だけが使われたとしても、戦争は悲惨なものとなり、その結果、人類の滅亡が現実のものとなることが考えられます。わたしが国連総会で述べたことを、ここに再び繰り返します。「各国で、数多くのより強力で進歩した兵器が造られ、戦争へ向けての準備が絶え間なく進められています。それは、戦争の準備をしたいという意欲があるということであり、準備がととのうということは戦争開始が可能だということを意味し、さらにそれは、あるとき、どこかで、なんらかの形で、だれかが世界破壊の恐るべきメカニズムを発動させるという危険を冒すということです。」

過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです。広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対しての責任をとることです。この町の人々の苦しみを思い返すことは、人間への信頼の回復、人間の善の行為の能力、人間の正義に関する自由な選択、廃虚を新たな出発点に転換する人間の決意を信じることにつながります。戦争という人間がつくり出す災害の前で、「戦争は不可避なものでも必然でもない」ということをわれわれはみずからに言い聞かせ、繰り返し考えてゆかねばなりません。人類は、自己破壊という運命のもとにあるものではありません。イデオロギー、国家目的の差や、求めるもののくい違いは、戦争や暴力行為のほかの手段をもって解決されねばなりません。人類は、紛争や対立を平和的手段で解決するにふさわしい存在です。文化、社会、経済、政治の面で、さまざまな発展段階にある諸国は、多種多様の問題をかかえており、そのために、国家間の緊張や対立が生じています。こうした問題は、国家間の正当な協定や、国際機関のよって立つ、平等と正義という倫理原理に添って、解決されねばなりません。それは、人類にとって肝要なことです。国内秩序を守るために法が制定されるように、世界の国々には、国際関係を円滑にし、平和を維持するための法制度が作り上げられなくてはなりません。            

この地上の生命を尊ぶ者は、政府や、経済・社会の指導者たちが下す各種の決定が、自己の利益という狭い観点からではなく、「平和のために何が必要かが考慮してなされる」よう、要請しなくてはなりません。目標は、常に平和でなければなりません。すべてをさしおいて、平和が追求され、平和が保持されねばなりません。過去の過ち、暴力と破壊とに満ちた過去の過ちを、繰り返してはなりません。険しく困難ではありますが、平和への道を歩もうではありませんか。その道こそが、人間の尊厳を尊厳たらしめるものであり、人間の運命を全うさせるものであります。平和への道のみが、平等、正義、隣人愛を遠くの夢ではなく、現実のものとする道なのです。

35年前、ちょうどこの場所で、数多くの人々の生命が、一瞬のうちに奪い去られました。そこで、わたしはこの地で、「人間性のため、全世界に向けて生命のためのアピール」を、人類の将来のためのアピールを、出したいと考えます。各国の元首、政府首脳、政治・経済上の指導者に次のように申します。

正義のもとでの平和を誓おうではありませんか。 今、この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないというかたい決意をしようではありませんか。 

人類同胞に向って、軍備縮小とすべての核兵器の破棄とを約束しようではありませんか。
 暴力と憎しみにかえて、信頼と思いやりとを持とうではありませんか。 

この国のすべての男女、全世界のすべての人々に次のように申します。
  国境や社会階級を超えて、お互いのことを思いやり、将来を考えようではありませんか。
 平和達成のために、みずからを啓蒙し、他人を啓発しようではありませんか。
 相対立する社会体制のもとで、人間性が犠牲になることがけっしてないようにしようではありませんか。
 再び戦争のないように力を尽くそうではありませんか。

全世界の若者たちに、次のように申します。
 ともに手をとり合って、友情と団結のある未来をつくろうではありませんか。
 窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。
 あなたがたの若い精神は、善と愛を行なう大きな力を持っています。人類同胞のために、その精神をつかいなさい。

すべての人々に、私はここで預言者の言葉を繰り返します。
 「彼らはその剣を鋤に打ちかえ、その槍を鎌に打ちかえる。国は国に向かいて剣を上げず、戦闘のことを再び学ばない」

神を信じる人々に申します。
 われわれの力をはるかに超える神の力によって勇気を持とうではありませんか。
 神がわれわれの一致を望まれていることを知って、団結しようではありませんか。
 愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目覚めようではありませんか。

最後に、わたしは自然と人間、真理と美の創り主である神に祈ります。
 神よ、わたしの声を聞いてください。それは、個人の間、または国家の間でなされた、すべての戦争と暴力の犠牲者たちの声だからです。
 神よ、わたしの声を聞いてください。それは人々が武器と戦争に信頼をおくとき、いの一番に犠牲者として苦しみ、また苦しむであろうすべての子供たちの声だからです。
 神よ、わたしの声を聞いてください。わたしは、主がすべての人間の心の中に、平和の知恵と正義の力と兄弟愛の喜びを注いでくださるよう、祈ります。
 神よ、わたしの声を聞いてください。わたしはすべての国、またすべての時代において戦争を望まず、常に喜んで平和の道を歩む無数の人々にかわって、話しているからです。
 神よ、わたしの声を聞いてください。わたしたちがいつも憎しみには愛、不正には正義への全き献身、貧困には自分を分かち合い、戦争には平和をもってこたえることができるよう、英知と勇気をお与えください。
 おお、神よ、わたしの声を聞いてください。そして、この世にあなたの終わりなき平和をお与えください。

広島市長をはじめ、ここに集まられた友人の皆さん、私の声に耳を傾けているすべてのかたがた、私のメッセージが届くすべてのかたがたに申します。

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原子爆弾と 「仁義なき戦い」

2012-07-29 22:07:38 | インポート

旧費本銀行広島支店

Photo_2 日本銀行広島支店は、被爆後8月8日には業務を再開させた。

昭和四十年代後半まで、この建物の正面階段には、原子爆弾投下時に腰を下ろし休んでいた人間の、人型が写真のネガフィルムの様に焼き付けられていた。

終戦と同時に、広島市東部から北部、西部と半円形に走る山陽本線沿いの、3駅の周辺に闇市が立った。広島駅は、呉線、宇品線(戦時中、日本陸軍の多くはこの線を使用し、宇品港から南方や、大陸に兵を送り出していた)、芸備線、山陽本線の基幹駅で、当然に大量の人間が乗り降りする。山陽本線を西に進むと、横川駅で、可部線につながり、旧安佐郡、高田郡の玄関口となり、さらに西に進むと己斐駅(現西広島駅)と続き、この駅は、広島電鉄宮島線、市内電車の基点であった。

この三駅が、広島では重要な位置を占め、当然に利用客も多く、闇市が形成されるべく条件を満たしていた。無法地帯を取り仕切る人物が自然発生的に現れ、通称「岡組」と呼ばれ、官憲と、GHQと、闇商人との間を遮り、闇取引が出来るように環境を作っていた。その本部を、横川駅に置き、東西の広島駅、己斐駅を取り仕切った。

岡組長の縁戚の何人かを、私の父が原爆直後、周辺の救護所から見つけ出したのが縁で、原爆で職を失った父は、闇米の運搬で食いつないだと言う事があった。私の父の話は後日この場で記述したいと思う。

この「岡組」が、昭和30年代中半まで、広島の暗部を取り仕切った。昭和27年私小学一年生の秋、この「岡組」とGHQの闇物資取締りの米兵との間で、己斐駅前闇市場で銃撃戦が繰り広げられた。「岡組」は、武装していたのである。この事件のときも私は不思議と遭遇したのです。

「パーン」「パーン」「パーン」「パーン」。

何が起きたのか私には理解できませんでした。その時、「タナカ」喫茶店の主人が店から飛び出してきて、私を店の中へ引きずり込んでくれた。

昭和30年代中半、「岡組」組長が亡くなり、その跡目争いが起こった。世に言う「仁義なき戦い」である。

この戦いは、一人のずば抜けた人間と、その行動が理解できない者の集団との間で発生した。「打越組」対「共政会」の抗争の始まりは現在私が住む、旧可部町の旅館「松副荘」から始まった。「松副荘」に宿泊中の「共政会」幹部が、「打越組」に大浴場で襲撃され確か二人が即死状態であったように記憶しているが事実はどうか確たい方は、DVDの「仁義なき戦い」でもご覧ください。そのままの事が、広島を中心に起きたのです。当然この組織の構成員の中には、原爆孤児が多く含まれた。両親をなくし、就職先も無い中で、こういった組織は不幸な人間を吸収して巨大化する。

この抗争は、昭和60年代まで続くが、この抗争が広島の建設土木業界や、政界に及ぼした影響は大きい。近年になり、やっと「暴対法」で少しずつ関係正常化が進んでいるように見えるが、先が見えない「官」対「暴力団」の戦いになっている。

当然に平和運動にも影響を及ぼした。「共政会」は、表面上政治結社を名乗ったからである。

広島では、平和運動が3つに分類され、それがさらに2つに分類される。

まず、左派、中道、右派。このそれぞれが、親「共政会」。 反「共政会」と分けられる。こうした複雑さから市民からは、遊離した平和運動とみられ、金儲けのための「平和運動」と見られがちとなり、行動が難しいのです。広島の平和運動の分裂が、こうした広島の持つ特殊性を根に持ち、起こったことを理解していただきたいと思います。

ただ広島では、長崎伊藤市長のような受難は過去発生しませんでした。ただし、7年前県会議員選挙後、一人の当選議員が襲われました。そして右手の指を切断されましたが、それは個人的恨みであり、政治的背景はありませんでした。

その中で私はいつも、ノンポリです。6グループと対等に話し、対等に行動しています。

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原子爆弾と火葬場

2012-07-29 00:35:34 | 社会・経済

今日は何も書く気力がなく、暑さに参っていました。

Photo 広島市職員の慰霊碑です。

                                                                                          

                                                                                              

                                                                                       

しかし先ほど、

http://pub.ne.jp/20071203MOTOTO/ みどりさんのブログを拝見し、どうしても書かなければ成らない気持ちが起こりました。写真の「火葬場に立つ少年」の姿を見たからです。

私の母校、広島市立己斐(こい)小学校(当時は国民学校)は、原爆による消失を免れた数少ない学校でした。しかし、生徒や、教師の中には負傷した者も多く居ました。その多くの負傷は、爆風によるガラスの破片によるものだったようです。(実際の上級生の被爆状況は、別の機会に記載したいと思っています)

校舎は倒壊を免れて、被爆者の救護所となり、地獄のような有様であったようです。連日多くの死者が出る為に、己斐町の火葬場では処理しきれず、校庭に溝を掘り、教室の腰板を壊し、死者を火葬しました。その結果、私が入学した時分、昭和27年当時も、強い雨が降ると、校庭から遺骨が出てきました。

出てきた遺骨は、講堂の裏に掘られた穴に入れておかれました。子供たちは当時恐怖感などなく、当たり前のようにそれを行っていました。なぜそのような事になったのか。

答えは簡単でした。家族が全員死亡しているか、又は一家の主人が戦場におり、家族の安否など確認できなかったのです。

その結果、多くの遺骨が眠ったままになりました。中には、氏名など確認されたものも多く有りましたが、遺骨の引き取り手が見つからない事の方が多かったようです。

現在も平和公園に眠る、引き取り手の居ない遺骨名簿が公開されていますが、その数は減ることが有りません。

昭和30年の「夏休み」に学校が、立ち入り禁止になりました。例年は、8月6日に全校生徒による原爆犠牲者慰霊祭を学校独自に行っていましたが、中止となりました。

遺骨の発掘作業が行われたのです。その後、雨が降っても遺骨が出てくることは無くなりました。

その己斐小学校の校庭を取り囲むように、桜が植えられていましたが、広島市内有数の、桜の見所でした。誰言うでもなく「死体の養分できれいに咲く」と言っていましたが、あながち間違いでは無かったようです。と言うのも、あまりにも多くの死者に対し、教室の腰板などでは火葬が間に合わなく、暑い夏の間、死体は一時的に、桜の木下の木陰に置かれていたそうです。

戦争が引き起こす悲劇とは、計り知れないものが存在するのだと、この年になり強く感じるようになりました。

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原子爆弾と移動劇団「桜隊」

2012-07-27 22:25:42 | 社会・経済

Photo

移動劇団「桜隊」は、原子爆弾の洗礼を受けた、唯一の「職業演劇集団」である。

吉永小百合を語る前に、この劇団について私の知る限りのことを、この画面上で皆さんに知っていただきかった。

私が小学生の頃、八丁堀と言われる繁華街の真ん中に、「福屋」百貨店があり、その裏手から南に向けて堀川、と呼ばれるドブ川が流れていた。嘗ての広島城の外堀からの排水路であった。因みに、八丁堀は嘗ては外堀であり、それを埋め立てて広島のメイン通りとなっていた。この堀川と呼ばれたドブ川は、昭和30年台後半に埋め立てられ、現在は平和大通りから北側を堀川通り、

Photo_2

南側を並木通りと呼んでいる。

Photo_3

この川筋一帯を新川場町と呼び習わしていた。その 片隅に標識というか白いペンキで塗られた杭が一本立っていて、いつも花が手向けられていた。

これが何であるかは、私が中学一年生に成るまで知ることは無かった。この木柱の碑が「丸山定夫・園井 恵子 追慕の碑」という物であることを知ったのは偶然からである。

当時放送部に所属していた私は、交流の有った女子私立中学校に行く近道として通りかかると、この碑の周りの草むしりをされている人に出会い、その謂れを聞くことに成った。

その方は、中国新聞の芸能部の方で、嘗て第二次世界大戦中に組織された、移動演劇隊「桜隊」という演劇集団に所属していた方たちが、原爆により犠牲となられたのを慰霊する為に、「桜隊」旧事務所前にこの碑を中国新聞の同士で建てたことを教えてくれた。

現在の地に移ってきたのは、この堀川と呼ばれたドブ川が埋め立てられ、また1955年の第一回原水爆禁止世界大会の会場で慰霊碑の建設が呼びかけられ、「桜隊」の前身である「苦楽座」のメンバーが中心となり建設された。

原子爆弾で唯一被害を受けた職業演劇集団である。

Photo_4 写真をクリックしてみてください。この碑の建設までの経緯が解り易く書かれています。

この桜隊の関係者には、綺羅星のごとく著名な俳優がそろっている。佐野浅夫、多々良純、徳川無声、藤原鎌足等々などです。

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