藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

おはぎ(6)

2021-06-11 16:58:53 | 日記・エッセイ・コラム

 今朝より今(午後四時)まで、起き上がる元気がなく、ベットにへばりついていた。 雨が降り始めたらやっと体が動き始めた。 何だか「アマガエル」に成った気分である。 しとしと降り始めた雨音は、やっと本当の梅雨の雨音だ。 

 「別れの茶屋」から西に進むと、私の子供時代には、松並木が残っていた。 西に西に、我が家の前を通り過ぎ、一時間歩くと、「草津」と言う町にたどり着く。 本来は、「いくさつ」つまり、「戦国時代」毛利家の「軍港」だった町である。 訛って、「くさつ」となったそうだ。 そこには、大きな寺院が並んで二つあり、一つは裁判所、一つは処刑場を兼ねていたそうだ。 その前を通り過ぎて急角度に右に曲がると、お目あっての「餅屋」が有った。 名前を聞いて、知らない日本人はいない、位に有名な名前の餅屋である。 「大石の力餅」と言う看板がそれを語っていたが、今は無い。 十数年前に廃業されたそうだ。 広島と言えば、「浅野藩」…と言えば「播州浅野家」の本家である。 「吉良家」討ち入りの後、離縁されて親戚に預けられていた、浅野家の家来の家族たちは、日本国中の大名から遺族の男子を家臣にと、奪い合いとなったそうだ。 その中で、「内蔵助」の次男は、浅野家に引き取られた。 その大石家が、明治維新で職を亡くし始めたのが、この餅屋だった。 この店から五分、山陽本線の大きな踏切がある。 自殺に名所で、ひと月に一度位の、頻度で自殺が有った。 その為誰も、新聞配達をしなかったが、私はどうしてか少しも怖くなかった。 最後の家が、かの「森戸達夫」広大学長の家だった。 朝四時家を出て、一里先の「大石の力餅」まで、明かりのついた家は一件もなかったが、この店に着くと明かりがともり、既に餅つきが始まっていた。 私が知る限りでは、この店が、「おはぎ」の終着点と言う事に成る。 只今一つ、確認した事の無い「おはぎ」がある。 広島の中区「江波」の街の「おはぎ」だ。 映画「この世界の片隅で」で出てくるこの江波の街は嘗ては浅野家の軍港の一つで、漁港としても賑わっていたそうだ。 そこに、一匹の狐が住み着いていて、その名前を「おさん狐」と呼ばれていた。 その狐の系統は代々人をだますのが上手く、江波の「おはぎ」屋も騙されたそうだが、二度目には捕まえて吊るしておいたそうである。 すると、今まで騙された人々から殴られたりけられたりしたそうだが、その餅屋の主人が余りにも不憫なので、縄を解いて逃がしたそうだ。 その恩返しにと、「お産狐」の活躍で、今までの数倍売り上げが増えた、という昔話が広島有るが、その餅屋だけは、現実の場所を確認していないのが残念だ。