藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

一日遅れの牡丹餅

2012-09-30 18:59:27 | 社会・経済

Photo

奥様「かね」のご要望により、日遅れで牡丹餅を作った。

ツマイモを蒸して、餡。豆餡は近くのスーパーで漉し餡を買ってきた。

理は色々遣るが、丹餅作りは始めてである。

の割にはよく出来たし、達にも好評であったので、面で皆様にもおすそ分けする事にした。

日遅れの、分の日の牡丹餅をどうぞ。

みに本日は、秋の名月の日でもある。念ながらお月様は雲の中である。西の端が晴れてきたので、夜には月をめでる事が出来るかもしれない。

追伸 部、東、陸、北地方にお住まいの皆様、型台風の被害が無きようお祈りしております。そうそう北海道を忘れていました。「椴法華」岸にお住まいの皆様お気をつけください。

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手遅れ

2012-09-30 08:10:12 | 社会・経済

 我が団地から、福王寺に至る林道の則面に自生している「山萩」が、花をつけ始めた。いよいよ秋本番である。昨夜、深夜から台風の影響で、雨が降り始めた。私の友人のYさんは、今日も稲刈りの予定であったが、中止せざるを得ないであろう。

01

昨夜、アスベスト暴露被害者Mさんの奥さんから電話を頂いた。

「健康管理手帳」石綿の取得をお勧めしていたが、諦めるという。

理由は、主人の肺癌(小肺胞癌、原発性肺癌)が悪化したため、証人を探すのが難しいと言う。それくらいのお手伝いは、此方でいくらでもして差し上げられるのだが、看病疲れから、気力をなくされている。

入院した病院により、生存期間の違いは何処で決まるのか。

平均生存期間一年六ヶ月と言われている「中皮種」患者で、三年以上がんばっておられる方や、僅か六ヶ月で旅立たれる方など色々見て来たが、医師の能力に負う所が大きい様だ。

「003.mov」をダウンロード

ツバメ達も帰国の準備を始めた。

男性の癌発生のなかで、肺癌が急激に増えてきた原因は、「石綿」ではいかと、やっと国が言い始めた。「石綿」輸入数量のグラフ線と、肺癌発生のグラフ線が、三十年遅れで平行線を示し始めたからだそうである。1965年 「日本社会党」は、「石綿禁止法」を作成し、国会に提出しようと試みたが、自由民主党と財界から、「労働者が職を失うよ」と脅され、実現しなかった。その時の法案の裏づけは、イギリス海軍の技術資料だそうである。

 今日では、ウエブをうまく操作すると、厚生労働省の公開資料の中にその資料は存在するが、よほど時間と知識が無い限り辿り着けない。

私の場合、娘婿がIT産業に勤めているため色々アドバイスをもらっているので、そうした資料に行き着くことが出来る。

その資料は、全国のアスベスト取り扱い企業名や、被害者の発生状況など、細かな資料で埋め尽くされている。

労働局や労働基準監督署が、労災認定するための基礎資料なのである。

ここに貼り付ければよいのだが、出来ないようである。

 台風は思ったより風が無く、台風のようだ。の夏雨量が少なかったので恵みの雨となった。

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久しぶりの山道

2012-09-29 08:15:49 | 社会・経済

014

昨日は、久しぶりに体調が良かった、少し散歩に出かけてみた。福王寺の旧参道沿いを歩いた。歩く事5分。。旧参道の案内石柱は、数十年の落ち葉の中に、その姿を辛うじて残している。

今日この旧参道を通って参詣される人は限られている。道標も百幾十年かの過程で落ち葉に埋もれ、傾いている。その道標の裏面に、今は無き「横堀町」の町名を見つけた。昭和30年台の末に、町名変更が行われ、歴史的町名が次々に消えていった。

日本文学史に名の残る「鈴木三重吉の生誕地「猿楽町」もその一つである。左官町、木挽町・・・消えてなくなった。広島の町名は三分の一になってしまった。

郵便行政に振り回された結果である。

005

そのうちに一つの石碑に辿り着いた

昭和20年8月6日、この地に起こった事実を語る石碑である。

原爆投下時に、B-29が観測用機器を個、落下傘で投下した一つがこの写真の地に落下した。この山は、福王寺という真言宗の別格本山が山頂に鎮座している。その旧参道の傍である。この山の持ち主自身も被爆された。彼は、平成元年歴史的事実を後世に伝える為にこの石碑を建てた。

彼は戦国大名「安芸武田」氏の末裔である。

石碑の傍に、小さなお堂が設けられ被爆者の」が奉られている。

爆心地から25kmこにも原爆の爪あとは残っている。

帰路、一軒の家の裏に、「マンジュシャゲ」を見つけた。

長崎物語の歌詞では、「マンジュシャゲ」は赤であるが、この集落の花は「白い」

しかし、旧参道には赤い「マンジュシャゲ」が咲いていた。

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今も、自民党総裁に就任した安部信三氏の顔がTVに映し出される。確か前回「総理」の座をいとも簡単に投げ出した方が再び「総理」の座に挑むとは思いもよらなかった。「潰瘍性大腸炎」という病気を本人が十分に理解していないようだ。と言うより担当医の見識を疑う。学者により、いろんな説が存在するが、私が、ボランティアとして難病に関わってきた経験から「総理」の激務は無理である。特効薬が出来たと言うが、精神的、体力的激務の元での、効き目は実証されていない。復職すると再発する例のほうが多い。

自民党の国会議員の見識もその程度だから、障害者や病弱者に対する政策が無いのである。心身症と言う言葉があるが、心と体は一体となって動いている事を、まづ学んで欲しい。

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もう直ぐ 中秋の名月。

2012-09-28 11:06:11 | 社会・経済

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昨夜は柄にも無く夜空を眺めた。の家に移り住んでこの方夜空を見ることはまれである。 言うのも、ランダが南向きで、島へ向け開けているため、空が明るく星がよく見えない。 たがって夜空を見ることなど無いが、一孫の為に天体望遠鏡を購入し、土曜日の夜孫が泊り込みで望遠鏡に取っ組んでいたが、小学校に入学すると、事に追われて泊り込みで来る事もなくなった。 方としては、のほうが楽であるが、体望遠鏡は寂しそうである。それにしても昨夜の月はきれいであった。月のような華やかさは無いが、処か憂いがあって美しい。真をアップで撮ろうと思ったがやめた。のみが夜空を独占している姿は何処か孤独な感じがして、此れは此れで絵になっている。

は真冬の満月が一番好きである。供の時分、湯の帰りに見た冬の月は、りつくような透明な夜空の中で貴公子然としていた。

の町内にあった三つの銭湯も十年前に全て無くなった。思議である。の後、つのスパー銭湯なる物が出現した。町を含めると五つも営業している。

くなれば欲しがる。間とは厄介な生き物である。

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67年前の8月7日

2012-09-27 15:14:34 | 本と雑誌

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給人原古墳群の隣の墓地で、ある墓の墓誌に目が留まった。「昭和20年8月7日没」没年15歳での死であった。明らかに原爆により亡くなったのであろう。その戒名からある学校が目に浮かんできた。旧制中学校「広島市立第二中学校」の名前である。この学校は、現在観音小学校で、嘗ては観音高等学校、一時期は野球の名門校広島商業高校も合併されていた事がある。「西観童児」の戒名から即に通称「二中」を思い浮かべた。私の姉の通っていた学校が観音高等学校だからである。「二中」の生徒の八割の生徒が、建物疎開先で原爆の直撃を受け亡くなっている。私の知っている人は、8月6日ハシカを発症し、比治山の自宅で床に伏していて、難を逃れた。勿論学校も全壊であったそうだ。

町内の墓所で偶然にも、昭和20年の現実を見詰める事になるとは、思いもよらぬ事であった。

それに附けても福島県の将来像を語る政治家が一人も出てこない。完全なる安全が確保されるまで、全ての物を国有化し、被害住民の救済を行うぐらいの大胆な発想をする政治家は居ないのだろうか。

北海道の「かわぐち えいこう」氏は、自らのブログで、万里の長城を遥かに凌ぐ防潮堤の建設を提唱されていたが、将にその論は正しい。

ついでに、地盤を40m嵩上げすべし。

土を切り出した山は、住宅地にし山間部にある「ダム」から灌漑用水を引き込み、一大農作物の生産地にすべし。放射能は地下40mに封じ込められる。15%の消費税は、自ずから景気刺激になり必要なきものになるように思う。

資金は、高利回りの「国債」を発行すればよい。「タンス預金」が吐き出されるだろう。

そんな夢物語のような発想を現実化できる政治家は居ないのだろうか。

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