藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

広島復興大博覧会

2015-05-29 07:58:23 | 日記・エッセイ・コラム

昭和33年、戦後13年目にして「軍都広島」は「広島復興大博覧会」を開催した。 私が私学の「中高一貫校」に合格した年であったから、鮮明に覚えている。 西日本最大の陸軍の中枢部であった跡地に、中国地方の中核県の県庁が建つとは、数年前までは誰も想像しなかったであろうと思う。 嘗て県庁は、水主町に有ったが原爆で全壊。 戦後、段原の「旧陸軍被服廠」の赤レンガの中で業務を行っていた。その建物から、現在地に建設されて移転していたように記憶している。 「広島城」が鉄筋コンクリートで再建されて、博覧会の目玉であった。 「平和公園」は、ほぼ現在の形態を表し、その記念すべき博覧会であったように思う。

 ただ子供心に疑問に思った事があった。 平和記念館の展示物の中に、「原子力の平和利用」というコーナーがあった。 子供心に、何かしら引っかかったのは、私だけなのだろうか。 後に、永井博士の書物を読むと「核物質の平和的利用」について言及されていた。 科学者の傲慢さを感じ始めた最初である。

 嘗て「中曽根康弘」は自伝の中で、軍人として昭和20年8月6日、 高松の軍司令部から見た「きのこ雲」を見て、「何時の日か日本も、核兵器を持たなければ、国際社会の中で取り残されると思った。」と書いている。

 このようにして、現在の「原発崇拝主義」が発生したことだけは確かである。 「核兵器」を手にするためには、「原発」を停止するわけには行かないのだ。 電力会社は、一部の軍国主義的企業と資産家集団のために、安い電力は「原発」と言い続けなくては成らない運命なのだ。

一昨日、上の写真集が、私の手元に届けられた。 送り主は、我が奥様の書道の先生。 先生といっても、手習いに言っては、おしゃべりだけで帰ってきた「生徒と先生」の仲である。 その方がこの本は、「藤森さん」が一番活用してくださるだろうと、お送りいただいた。 幾年か前に、限定部数で出版された写真集である。

 昭和22年頃から、復興して行く広島を丹念に撮影されている。 加えて現在との対比が面白い。 子供の頃を思い出しながら、毎夜眺めている。 どのように活用すればよいのやら?・・・・。  ゆっくり思案してみよう。 さしあたっては、明日の昭和20年生まれの「同窓会」で皆さんに見ていただく事にする。

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被爆者差別

2015-05-27 08:14:04 | 日記・エッセイ・コラム

 原爆被爆者の健康差別、結婚差別問題は、アメリカによる「ABCC」(Atomic Bomb Casualty Commission)の設立以来、世間では影で囁かれていた。 「奇形児出産」、「白血病」、「各種癌」、「原爆白内障」等々・・。「謂れ無き差別」は存在していた。

 「ABCC」の存在が、より「被爆者差別」を助長しているとも言われた。 特に昭和40年、大江健三郎が発表した「ヒロシマノート」が出版されると、被爆者差別は一段と激しさを増した。

 正確な医学的知識の無い一般人は、「被爆者」を「放射能の塊」的視点で見ていたことは確かである。 その事は私自身も感じてきたことだ。 広島から東京、大阪、名古屋等の大都会に転出して行った「ヒバクシャ」 を待ち受けていたのは、「謂れ無き差別」であった。 その人たちが、「広島=ヒバクシャ=放射能」の「鎖」から解き放たれたくて、広島に存在する「悲惨さの象徴的建造物」の撤去を求める運動を起こした。 当時保守的政党に属した人達が中心であった。 「旧軍人」の一部や「各種遺族会」の一部等がそうした運動の中心であった様に思う。 「学徒動員遺族会」もこの問題で分裂していった。 「核兵器廃絶運動、平和運動」も完全に分裂した。 その事が後々「原発容認」の流れになっていったように思う。

 昭和20年8月6日、「ヒバクシャ」が助けを求めて、大量に押し寄せた「己斐国民学校」(己斐小学校)が、救護所となった校舎の建替えにいち早く着手されたのは、こうした「市民感情」が後押ししていた。 昭和31年のことである。 昭和27年、私が小学校に入学したとき、教室や廊下の「腰板」が「床」より新しかったことを覚えている。 校舎の「腰板」は、「ヒバクシャ」の火葬の為に剥ぎ取られて、校庭に掘られた塹壕で火葬の燃料にされた。 火葬の燃料にされた腰板の灰と遺骨は、そのまま埋設されていた。 昭和26年8月迄、遺骨の収集はされなかった。 市民感情としては、そっとしておいて欲しかったのである。 然しながら、雨が降るたびに遺骨が校庭から顔を出すようではと、遺骨の収集が行われることになったのは、昭和26年の事である。 学校の夏休みにそれは行われた。 夏の暑い盛りに見学に出かけた記憶がある。 己斐小学校は、 8月6日広島市内の小学校で、唯一「原爆被害者」の慰霊祭を今日まで続けている。 その所以である。 その時発掘された遺骨は、2000体以上と言われている。

 子供の頃、「己斐小学校の桜がきれいに咲くのは、死体の栄養を十分に吸ったからだ」言われていたし、事実すばらしい花を咲かせていた。 その桜も今は無い。 「過去の封殺」が行われたのである。 素晴らしい藤棚とともに。 原爆の生き証人が次々に抹消された時期がある。

 そんな中で、広島の県議会や、市議会から原爆ドーム解体の烽火が上がった。 その意見にただ一人反対されたのが、「丹下健三氏」であった。 広島大学哲学科の「角 秀一」教授も反対の声をあげられた。

 そんな状況下で、国の予算で勉強している「青年学級」の若き青年たちが、市長の考えを聞こうと企画したのが、「原爆ドーム」保存運動の再燃になっていった。

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小学校のクラス会と広島市青年学級同窓会

2015-05-26 15:28:07 | 日記・エッセイ・コラム

 小学校のクラス会を開催して欲しいとの要望が、東京在住の同級生から寄せられた。 中高一貫校で育ち、大学卒業後、転勤族となった同級生も今年70歳となる。 多くが終戦の年に生まれ育った。

 高校の同窓会に広島に帰省するので、それにあわせて同級生の顔が見たいとのご要望である。 何時もならば気持ちよく請合うのだが、この年になってみると、「病床」に就いていたり、「鬼籍」に行ったりの情報を、誰よりも持ち合わせている自分は、あまり気乗りしないのである。 「恙無い」の言葉など「どこか遠い」といった心境なのである。

 かく云う私は皮肉にも、「ツツガムシ病」に感染してしまった。 早や二十日になるが、未だに元気が出ない。 

 先日私の古い記録を整理していると、昭和41年頃の記録が出てきた。 その記録を読んでいた奥様は「是非ともNHKの戦後70年番組の担当者に読んで欲しい」と言い出して、NHK広島のディレクターに届けにでかけた。 非常に興味を示されて、「お貸し願いたい」とのご要望のもと置いて来た。 

 その資料の中に、昭和40年頃から「原爆ドーム」解体運動が起こり、国や行政も「崩壊の危険性がある」の結論で、解体することが市議会で検討され始めた事に、「二十歳」そこそこの私とその仲間が、「広島市青年学級」の学習会として、当時の広島市市長「浜井信三」氏に「旧中央公民館」の一室で、その真意を問い質した集会の記録が残っていた。   

 昭和41年の初夏のことだ。 当時の「被爆者差別」の根源が、「原爆ドームの存在が一因だ」という世論が一部には存在したし、「原爆を売り物にしている」という批判も確かに存在していた。 原爆スラムも広島の中心部の大半を占めていた時代である。

 この会合がきっかけとなって、広島市内の青年たちが結集し、「原爆ドーム」保存活動が再燃した。 当時の保守系市議会議員の大半は、「原爆ドーム解体論」だったが、この集会がきっかけとなり態度が変わり、被爆者団体も「保存」に大きく舵を切った。

 こんな小さな会合から、「世界遺産 原爆ドーム」は生まれたと今では思っている。 井伏鱒二著の「黒い雨」も後押ししてくれたことは確かである。 保存の決定までには、その後長い年月が要したが、若者が発した小さな声が実を結んだことは確かである。 その時行動を起こした「青年たち」は後に、広島市内の「PTA」や「町内会」、「労働組合」の中心的人物となり、「原爆ドーム保存運動」の中心に居続けたからである。 今や嘗ての青年も、「後期高齢者」である。

 当時の仲間と、この30日に同窓会をする。 どんな話が飛び出すか・・・・・・。 私の悪行を知り尽くした仲間だけに行くのが怖い。・・・・結果は何れ「報告」いたします。

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生命力

2015-05-20 18:47:17 | 日記・エッセイ・コラム

三月末頃、台所の片隅にジャガイモが一つ転がって、一人芽を出していた。 萎びたそのどこに、芽を吹く力があるのだろうかとあまりにも哀れを感じて、庭の片隅に植えておいた。 

ジャガイモ君は、花を咲かせ力強く成長している。 秋が楽しみになってきた。 果たして幾つの小芋が生まれるのだろうか。 それにしてもたくましいものである。 庭の片隅でも育つものである。 終戦後、どの家でも庭は食料生産の現場であったことがあった。

線路脇の空き地も、「トウモロコシ」が植えられていたのを思い出した。 みんな生きることに必死だった時代だ。 今や又、戦前の過ちを繰り返しそうな政治状況が見え隠れする。 強権政治の時代が再び来るのだろうか。 大阪では強権政治を否定した。 さすが大阪人である。 その反骨精神に乾杯したい。

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お休み中、アクセスしていただきありがとうございました。

2015-05-19 09:58:23 | 日記・エッセイ・コラム

選挙も終わり、「休養」と思いましたが奥様のご要望で、里山めぐりの下調べ兼、試験登頂にこき使われていました。 (結構これが楽しいのです。)

そこまでは良かったのですが、里山も危険地帯だと思い知らされました。

「マダニ」 の襲撃にあって二週間、やっとここまで回復。 そのかまれた傷口は本日も見て取れます。 五月七日病院が開くのを待って診察を受け、即傷口を切開手術。

抗生物質や、かゆみ止めの薬を飲むこと一週間。 その間、「気力、体力」すべてを失い、ただただ横になっての生活でした。 と言っても、十日の日に、「神乃倉山」に登ったのが今日まで症状を長引かせたのでしょう。

奥様孝行も少し疲れたので、三食の料理が手抜きになっています。 「本」と「読書時間」が有ればご不満の無い奥様であるからして、助かっています。 

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