藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」   「本日、奥様お出かけ」

2013-09-29 15:53:27 | 社会・経済

奥様は早朝から入浴。 全身に磨きをかけお出かけになった。 

本日は、自らが所属する「スクウエアーダンス」クラブ主催のパーティーだそうである。

八時前には家の中が静まり返り、カラスの鳴き声だけが聞こえてくる。

不思議とご近所さんの物音も聞こえてこない。 こんな日は珍しいと思いながらボーっとしている。 

それにしても、一週間前に区民図書館に予約しておいた「出雲国風土記」が、未だに届かないなど不思議である。 毎日書類運搬車が、本庁舎と行き来しているのに何処か変である。 

民間委託になって、時間がかかり始めた。 果たして民間委託事業が、経費削減に成っているのだろうかと、疑問に思い始めている。

猛暑は過ぎたが今日も27℃を越えている。 月が変わり季節的に良くなれば、「石綿被害者救済」の手助けを再開する予定である。

先ずは明日30日、中皮腫で亡くなられたSさんの損害賠償訴訟を傍聴に行き、来るべき証人尋問に備えるつもりでいる。

午後からは、「広島共立病院」で精密検査が始まる。 今まで行なわれなかった全ての検査をこの病院と、「広島大学医学部付属病院」で行う。 「肺機能」の細かな検証と、「肺機能低下」が人体に及ぼす影響を検証するのだそうである。 言うなれば「モルモット」ではあるが、資料の少ない「石綿被害者」の救済の為には、体を切り刻んでも協力するつもりでいる。

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深山 霞の「霞的心」   「出雲路珍道中記8」

2013-09-28 20:23:57 | 社会・経済

「医王山 一畑寺」から「島根鹿島原発」は今回の旅の計画道理のコースであった。

奥様が「原発」なる物を是非とも見たいとご希望であったので、本来見るべき「出雲豪農屋敷」や、「平田本陣」等は省略して目的の「原発」を目指していたが、国道431号線を鹿島町に向かっていた道路上に、「○○古墳公園」「××調査センター」なる道路案内看板を見つけてUターン。  

島根県埋蔵文化財調査センターなる施設の駐車場に車を止めた。 しかしながら本日は休日。 

入り口は堅く閉ざされており、半ば諦めながらも何の施設なのであろうかと物色していると、後ろから我妻「茜」が「お父さん鍵を開けて頂いたよ」と大声で呼んだ。 見ると四十台始めの女性が鍵を開けて、我が奥様と話をしている。 話によると、ここは島根県の発掘調査の、訓練研究施設だそうである。

今日は休館日であるが、たまたま自分の研究のために出勤していたそうである。 その女性研究員は、快く施設に招きいれてくれた。 その施設の中は小さな展示場も在るが、主に子供たちに対する考古学の体験場所として、又、各市町村の文化財担当者の育成の為の施設兼保存修復施設だそうである。 その女性研究員は、熱く考古学を語ってくれた。 出雲大社の「宇豆柱」の保存方法やその他の文化財の保存方法に至るまで丁寧に説明していただいた。

二時間があっという間に過ぎ去った。

Photo 山持遺跡発掘時の資料など、この施設が発行している冊子で丁寧に説明いただき「考古学」愛好家の私は感激した。

話は個人的な話に及び、どこの出身でどこの大学の出身かにまで及んだ。

彼女は22年前「島根大学文学部」を卒業したが、「考古学」を生かせる就職先が無かったが、偶々中途採用試験がありそれでここに入ったそうである。

島根大学といえば、私の高校時代の「日本史」の道重先生が、突然島根大学の教授に就任される事になり、一年分の授業を一学期間でされた記憶が有り、その授業の素晴らしかった事を語ったところ、その先生の事は良く知っているとの事であった。 その先生は、教育学部の社会科教育の教授で、その授業のすばらしさは学内でも評判であったそうである。 またその書かれた論文の多さは群を抜いて多く、後には東大の教授、島根大学図書館長、広島県文書館館長を兼任され、退任される時には全校あげて式典を行ったとの事であった。

こんな所で恩師のその後の活躍を聞き感激。 私の考古学好きはこの先生に始まったといまさら認識した。この施設の山側に「古墳の丘 古曽志公園」があり、古墳群が宍道湖を見下ろしていた。

Photo_2 もし皆さんが、出雲を尋ねられたら是非ともこの施設を訪ねて見られると感動されますよ。

この研究所の研究員の話では、出雲大社の「宇豆柱」の保存方法は、柱を「砂糖漬け」にしてあるそうである

砂糖と言っても食べる砂糖では無い。 人口甘味料「ソルビット」漬けなのだそうである。 そうする事により、一定の水分が保持され酸化が防げるそうである。 言うなれば、「ザボンの砂糖付け」である。

その方法が植物製品の出土品の保存には一番良い事がわかってきたそうである。

若き女性研究員に深く感謝しながらこの施設を離れ、古曽志古墳群の公園を散策し後、島根鹿島原発へ向かった。 

着いたのは午後三時過ぎ、辛うじて「原発資料館」の見学は出来たが、境港の先にある洞窟遺跡は見る事が出来なかった。

漫画家の水木茂生がまれ育った海の反対側に、縄文から弥生時代に人間が住んだ洞窟遺跡がある。 今回どうしても訪れたかったが叶わなかった。

それにしても我が奥様は、14日の午前4時から15日の夕刻六時過ぎまで車を転がし、私の願望を叶えていただいた。 感謝感謝である。 ここからは自宅まで私がノンストップで帰路に着いた。 

そうそう、佐田神社を紹介するのを忘れていた。

鹿島町佐田は、島根半島を縦断した水路で日本海と宍道湖を結んでいる。つまり、島根半島の3つの括れの一番大きい所である。そのくびれた所から日本海に向かって右に山一つ超えると日本海に出て「島根鹿島原発」が有る。 

250pxsada_jinja1 反対に宍道湖側に佐田神社がり、その御利役は「願い事成就」だそうである。効能の最後に、「縁切り」と書かれていた。 確かに「縁切り」も願い事の一つではあるが、鎌倉の「縁切り寺」以来こうした記述を見るのははじめてである。

併設された「出雲文化資料館は時間切れで見る事が出来なかった。

皆さんも出雲文化の奥深さを探りに一度ご訪問ください。 すばらしい「出雲人」がきっと待っていてくれますよ。

来春、奥様の定年を待って、今一度「出雲路」を尋ねたいと思う。 まだまだ奥深い「出雲」である。

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深山 霞の「霞的心」   「出雲路珍道中記7」

2013-09-27 21:40:56 | 社会・経済

「医王山 一畑寺」は、「浅草浅草寺」と良く似た経歴を持っている。

「浅草浅草寺」は、兄弟の漁師が観音様の仏像を海中から引き上げた事に始まると言う。

同じように、この出雲路にある「医王山 一畑寺」も又一人の漁師が、海中から「薬師如来像」を引き上げた事に始まるそうである。

それは、寛平6年(西暦894年)の盆の事であったそうである。その漁師の名は、「与市」。 目の見えない母親と二人暮らしで、盆にも係わらず、母親の体に良い魚を食べさせようと漁に出かけたが、トンと魚が取れない。 ミサゴが一羽、海の上を円を描いて飛んでいたそうである。 そのミサゴの下の海面が、少し光って見えたので船を近づけて網ですくってみると、仏像が一体上がってきた。 その仏像は「薬師瑠璃光如来」で、家に持ち帰り大事に祀っていた所、次々に不思議な事が起こったそうである。

ある夜、与市の枕元に「薬師瑠璃光如来」が立ち、母親の目を治したければ「百丈が滝から飛び降りよ」と、告げたそうである。 そこで与市は、千束の藁を身につけて滝に飛び込む決心をした。 驚いた村人が止めるのも聞かず、飛び込んだそうである。 村人から話を聞いた母親が無我夢中で駆けつけると、与市は滝壺の大きな石の上に安座していたそうである。 と同時に母親の目が開き、それを感謝した与市が目の前が開けたこの場所にお堂を建てて「薬師如来」を安置し、自らは比叡山に登り出家し、名を「補然」と改めこのお堂を守ったのが始まりだそうである。

Pic_0572 以来「眼病」平癒の寺として名を馳せ、後には朝廷から「疫病平癒」の勅命を受けたそうである。

松江藩松平家からは特段の庇護を受けたそうであるが、その信者は日本全国に亘り、今日まで多くの人々をこの山に惹きつけている。

参詣者のために引かれたのが、一畑電鉄であり開業当時は松江からこの一畑寺の麓までの電車であったが、後に「出雲大社」迄延伸された。 したがって、その線路は一度山中に入り再び宍道湖湖畔を走る。 

今日では山頂まで自動車やバスで昇れるが、嘗ては一畑口電停から参道を歩き、階段を千数百段登らねばならなかったらしい。

Pic_0574 この日は生憎の小雨が降っていて、大山や三瓶山が見えなかったが、晴れた日には遠くに神話の村々が望めるそうである。

私はこの寺の来歴は良く知っていたが、訪れたのは初めてであった。

東京や福岡からの方々が、ご家族連れで「病気平癒」のご祈祷を受けておられた。

「病気平癒」の感謝の奉納千躰佛は圧巻であったが、写真に収めたはずが写っていなかった。 今もって不思議である。

Pic_0573 この扁額は「観世音」とでも読むのであろうか。

大僧正 「良慶」とも読むのだろうか。

この扁額がここに掛けられている謂れを是非とも調べてみたいと思っている。

この参詣の後、先日ご披露した「島根鹿島原発」を訪れたのである。

「原発立地交付金」で、贅沢な体育施設や病院が立ち並び、その様は「お金」で生活を買っているような感があり、何処か落ち着かない。 その景観は出雲路には似つかわしくないものに感じるのは私だけであろうか。

東京電力は「柏崎刈羽原発」に、二つ目の「排気用ベント」を取り付けて、再稼動させたいらしい。 ベントを二つにしたら安全になるのかと言えば、この世に完全な物が無い限り、「危険が二倍に成る」と言う原理が、電力会社の皆さんには理解できないらしい。 ましてや、地震多発地の新潟県に、「原発」を作った事自体不思議な事である。

「原発」が安全な物ならば「東京都下」に作ればよい。 その方が長い長い送電線が必要なくなる。 危険性があるから、人里はなれた場所に原発を作り、巨額な費用を掛けて送電線を張り巡らせているのだ。

もうこの辺で「イタチゴッコ」は、止めて置くに限る。

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深山 霞の「霞的心」   「出雲路珍道中記6」

2013-09-25 21:47:34 | 社会・経済

我妻「茜」様は、今回の旅に出かける前から、「日御碕」の子供の頃の思い出を、再三に亘って語っていた。

私の妻は「日御碕」に良い思い出が無い様である。 聞けばなんともユーモラスな話なのだが、「日御碕」と言うとこの一件を思い出すらしい。

その事件は、小学生時代の夏休みの事だったらしい。 バスでの日帰り旅行で「日御碕」に行ったらしいが、おそらくその日帰り旅行は、出雲大社を含めての旅行であったであろうと推測するが、ご本人は至ってその旅行の内容の記憶が無い。 どうもお父さんの事件が余りにも衝撃が大きくて、他のことが全て何処かに行ってしまったのであろうと推察している。

奥様の実家は、中国山地のど真ん中である。 したがって、広島より出雲の方が近い感覚があるらしい。 現実水の流れも、全て山陰へ流れているので、箸が流れれば自ずと日本海に行き着く。 当然に文化圏は「出雲」である。 初詣は、「大山寺」か「出雲大社」である。

出雲への道は、小さい峠を越えて「国道54号」へ出ると一本道である。 ただしこの国道が曲者で、水の流れは出雲へと下っているが、渓谷が急峻な為に遠回りして「赤名峠」と言う難所を越えていく。 夏はなんとも涼やかな峠であるが、冬は大変な豪雪地帯である。 「国道54号」の傍でスキーが出来る。 近年は寂れたが広島からのスキーで大いに賑わっていた時期がある。

妻の実家の婦人会や農協の旅行は、出雲大社~日御碕、一畑薬師~松江城と相場が決まっていたらしい。

その旅行で父親と我が奥様は日御碕灯台へと行ったらしい。事件は其処で起きた。 お父さんが下着一枚で、日御碕灯台の海で泳いだ結果、海から上がってきたお父さんの下半身が透けて見えたのだそうである。 その事件がトラウマなのか、日御碕神社の記憶が無いらしい。 らしいのでなく無い。 

Pic_0565 この神社を当時見たはずであるが、記憶に無いらしい。 

この日御碕神社は、天照大神が祭ってある。 伊勢の二見が浦が「日出処」 そしてここ日御碕は、「日入処」であり、この地上に日が昇り、日が沈むまでを取り仕切るのが天照大神で、この神社の本殿は朝日が当たらぬように本殿に日よけがしてある。

この神社は、夕日を祭る神社で明日の朝、復活して東の二見が浦から朝日が昇ってくる事を祈る場所だと、どなたかの本に書いてあった記憶がある。

Pic_0564 本殿の東面に張られた黒い膜板がご覧になれるだろうか。

日が昇り昼間を司るのが天照大神ならば、夜は誰が司るかが問題になってくる。

其処に大国主の命が登場してくる。

暗くなれば男女の仲は、・・・・・・・・・・。 子孫繁栄、縁結びの神様たる所以だという学者も居られる。 ある一面、納得できる所がある。

ところで、日御碕灯台の周りには泳げる場所は無い。 今回は時間の関係で訪問を諦めたが、灯台の周囲は断崖絶壁でとても人など泳げない。

奥様はきっと勘違いをしているのだろうと思っている。

と言うのもこの神社の西の端は・・・・・・・・。

Pic_0566 ご覧の様なこんな景色なのです。20軒ばかりの漁師集落で現在ではその多くが民宿をしている。もちろん漁師が本職である。

出雲市内から車で30分かからぬこの場所も、宿を求めた人々の車で埋まっていた。

他府県ナンバーの車で神社の境内は埋め尽くされていた。 この神社は元来、この港からのみ訪れた。 だから一の鳥居が港に立っている。

Pic_0567 この日この漁港の民宿には、住民の数倍の人間が宿を取っていたであろう。

おそらく夕暮れ前にここに着き、西の日本海に沈む夕日を眺めたに違いない。

この鳥居の下に立ち西を眺めると、岬の突堤の先にある小島の上の鳥居に夕日が沈むのは、いつの事だろうかと想いをめぐらせてくれる。

もしも冬至に、其処に日が沈むならば実に面白いと思った。

いずれにしても、出雲路は想像を掻き立ててくれる。

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深山 霞の「霞的心」    「出雲路珍道中記5」

2013-09-24 19:38:10 | 社会・経済

どうもお伝えしたい事が多すぎて、先を急ぎすぎたようだ。 「出雲大社の大注連縄」について書くのを忘れていた。

「出雲大社の注連縄」は、皆さん良くご存知のとおり、「太く巨大」と言う方が良い位である。 しかしこの注連縄、稲藁では出来ていない。 その事を知ったのは、去る事、我が子供が三歳と二歳の時である。 四十五年も前になる。 

子供の健やかな成長を願って「出雲大社」にお願いに参詣した時である。 お払いを受けた後に、注連縄の説明を聞いてびっくりしたのであった。

Photo この出雲大社の注連縄は、「マコモ」という植物で出来ている。 そうです。 利根川の河畔などに生えている「マコモ」なのだそうである。 私などは子供の時分に、「マコモダケ」という「マコモ」の変形したものを初秋に取り、食用にしたことがあるが、皆さんはどうであろうか。 どこかアクの無いやわらかい竹の子の様な食感である。

子供時分は、この植物がどの様にしてこのように変形し、食用になるのか知らなかったが、その後植物図鑑で調べてこの植物の面白さを知った。

皆さんも一度調べて見ていただきたい。

この植物は、弥生時代から食用にされたらしい。 漆の着色原料やはたまた鉄漿の材料であったそうである。

詳しくは覚えていないが、何とか菌が花芽に付くと異常発育し、「マコモダケ」になり、旬を過ぎると黒色化して、顔料になるらしい。

古代人の自然の利用恐るべしである。 江戸時代には眉墨もこの植物から作ったそうだ。 

この注連縄が作られたのは、この大社の前が沼地であり、「マコモ」が群生していたからあろう。

この「マコモ」の生えた畦道の内側には、「赤米」がタワワに実り出雲平野を潤していたのであろう。 「赤米」は寒冷地に強く、古代多くは「赤米」を栽培していたようである。

今日は話が「出雲路珍道中記」から横道にそれてしまった。 あしからず。

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