藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

岡山再訪

2014-08-19 13:44:44 | 日記・エッセイ・コラム

岡山には現役時代度々訪れたが、嘗て子供時代に過ごした町を、ゆっくり訪ねることは叶わなかった。

今回、嘗ての「カバヤ児童文庫」の調査で、訪ねてみる気になった。

其の一つの理由が、「カバヤ製菓」様の優しい心遣いを感じたからである。

以下に其の状況を記しておきたい。

カバヤ児童文庫について、「カバヤ製菓株式会社」広報課からの聞き取り

「カバヤ」は、昭和21年、林原株式会社の子会社として設立された。同時期、旧「池田藩主」池田家は、終戦と共に貴族の地位を失い「後楽園」や、「池田動物園」、「池田植物園」の維持が不可能となり林原一族は全力で「池田家」を支援するため、色々尽力したようです。

中でも、「動物園」は、「カバヤ製菓」設立と同時に取得し、園長を池田厚子氏とし、社名は平和の象徴となることを願って、体は大きくても優しい「カバ」を社名としたそうです。

昭和21年早々、林原一族の経営する、太陽不動産の手で岡山駅の西側に二万坪の用地を購入し、「太陽水飴」と、「カバヤ製菓」「林原産業」の工場を建設、水飴と、練乳の全国生産の90%生産し、森永、明治、不二家の設立者と協議して平和をイメージ出来る「キャラクター」を付ける事を条件に販売をしたそうです。

但し、練乳は北海道と大山の麓で作られたそうである。必然的に独占状態であったようである。

これらを可能にした資金は、明治から軍への納品により得た資金が潤沢にあり、明治半ば以降から岡山県下で、「岡山製紙」「岡山日日新聞」「太陽不動産」「太陽水飴」で巨万の富を蓄えていたそうです。 

林原と池田家との関係は、非常に興味事項ですが今回は省略します。

昭和21年、戦時中の新聞統合を見直し、自社の新聞を発刊しようとしましたが、旧山陽新聞や旧瀬戸内新聞に反対され、仕方なく「夕刊岡山」を立ち上げ、戦地から引き上げてきた元新聞事業に従事していた社員のために発行する事としたそうです。

「カバヤ児童文庫」は、新聞発行用の印刷機を使い、系列会社の「岡山製紙」の用紙で印刷されたが、製本所が空襲で焼かれていた為、又、岡山には当時技術者がいなかったこともあり、空襲の無かった京都の「写真印刷」の中に駐在員を置き、「カバヤ児童文化研究所」とし、製本のみ委託した。第三種郵便物の指定を受ける為、定期刊行物の形態をとる為であったそうです。

翻訳その他は、再編中の「新制岡山大学」の各研究室が行い報酬を研究費や奨学金としていた。

序文は、東京支店を通じて、其の分野の専門家に依頼し、指導を受けたそうです。其の過程で考えられたのが、カバの形をした自動車の開発で、広島の会社が請合ったのだそうです。

Pic_0835_2

*こんな自動車でした。

三台製作され、東京、大阪、岡山に配置されて地方を巡回し、売り上げを伸ばしました。

昭和27年 池田動物園は「子カバ」を購入。 其の「子カバ」をトラックに乗せて、二年間で日本一周し、戦後初めて実物の「カバ」を子供たちに見せたのが「カバヤ」だそうです。

Pic_0837_2 *右端にいるのが「カバ」を乗せた大型トラックでした。広島にも「移動動物園」としてやってきました。

Pic_0832

*以前よりいい男になったでしょ。

この「カバ」自動車は二代目で、この車両も広島の初代「カバ」自動車を製作した会社が手がけ、岡山に「オス」、東京には屋根にリボンが付いた「メス」があり、現在「メス」は東北被災地を慰問巡回中だそうです。

週末は「カバヤ東京工場」に帰っているそうです。

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