藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

おはぎ(4)

2021-06-09 11:57:52 | 日記・エッセイ・コラム

 私に行きつけのスーパーに、2個100円の「おはぎ」が有る。 勿論「黄な粉」味も有る。 同じ値段で、四月から五月までは「桜餅」も有った。 一番のお気に入りは、桜餅だが、二番目が 「牡丹餅」。 この大きさで、二個入っています。

     

私が使っているマウスより大きいのです。 此れが税込み「百円」。 証拠の写真を

     

皆さん確認できましたでしょうか。 私の年になると、一度に二個は無理なのです。 かと言いて、一個では、・・・・。 夫婦で三個となり、一個余るのは友人で「認知症の」私と同い年の女性に、プレゼントとなるのです。 この女性は、昭和20年生まれで私と、同い年。 終戦時には、お姉さんとお母さんと三人で疎開していたそうだが、その先は・・・。 「認知症」の為、思い出せないのだ。 五年前まではハッキリしていた。 ご主人を石綿による「中脾腫」で亡くされて、「労災手続き」を手助けしたのだったが、実は彼女とは、昭和41年、広島市青少年センター開館時からの友人なのです。 彼女の事を語ると、幾ら紙面が有っても足らないので、いずれまた書きますが、青少年センターは、相生橋の袂の、商工会議所の三軒裏にありました。 周りは、原爆スラムのど真ん中。 彼女は自分の住まいに帰るのには、歩いて帰っていました。 相生橋を渡って、十日市方面に歩き、もう一橋わたると、彼女の住んで居た町だった。 その距離1.5km。 その途中、左側に「高木」と言う、和菓子の名店が有りそこの「おはぎ」は有名でした。 一度だけ夏の暑い夜に、青少年センター閉館後、数人で夕涼みがてら歩いて帰宅した事が有りました。 その時、私が「高木」で、「おはぎ」を買って、「広瀬橋」の欄干にもたれて男が四人に彼女とで、夕涼みがてら「おはぎ」を食べて、・・・・。 その時聞いた彼女の生い立ちは、(以前このブログで、さわりを書いたので、またの機会に書きます)男四人が涙ぐむ話でした。 私の中では、「おはぎ」色々な過去を思い出させてくれるものなのです。

コメント
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