藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

遥か昔を思い出した(3)・・・

2023-12-25 14:26:01 | 日記・エッセイ・コラム

 私が生まれ育った町は、当時国鉄「己斐駅」から西に500m。 旧山陽道と、国鉄の山陽本線の線路に挟まれた平屋の家だった。 原爆では、屋根瓦が全て吹き飛び、生後四か月の私は、寝かされていた六畳の和室の畳と共に5m程空中散歩させられたそうだ。 その家から、1.5km西に行くと、かの「仁義なき戦い」の片方「打越組」が有った。 元来この地域は、江戸時代からの埋め立てで出来た土地柄で、その中でも「打越家」は、中心的役割を成した家柄だった。 事件が起きた当時、この打越家には、二人の男の兄弟が有り、お兄さんは戦前から荒れ地を開墾して農業をなさっていた。 出来る物は限られていて、この地域に有った中学校(庚午中学校)は、通称「芋中」と呼ばれていた。 つまり、薩摩芋が主力の農業だったのだ。 それ以前は、「どんぶけ田」と呼ばれた泥沼で、蓮根畑だった。 北側の山を削って埋め立てて、畑にしたそうである。大正の初めの事だ。 さてその弟さんは、特攻隊に志願されたが、直ぐに終戦。 ここからが人生の曲がり角となった。 戦後すぐに、広島の闇市を仕切ったのは「岡組」であったそうだ。 その「岡組」に足を染めたのだった。 わが父は、その「岡組」の親分の身内の方を、原爆の時に助けたそうである。 それが出来た事はまたの機会にここで記載したい。 そんな事で、我が親父の葬儀の日には、嘗ての「岡組」の親族の方が御出でになりビックリした。 なんせ、一介の年取った親父の葬式に、まさかの500人もの人が集まるとは思ってもみなかった。 親戚が30人。私の付き合いの仕事関係者10名、同じく市会議員十名。 それ以外は、なんらかで原爆の時父がお世話をした方達や、太田川放水路で溺れていた、子供を助けた関係者であった。 さて話を戻すと、「岡組」の親分が亡くなると、組は二つに割れた。片や「打越組」片や「共政会」である。 「打越組」は、社会的にはこの頃から流行り始めたタクシー会社を生業とした。 「共政会」は、暴力団取締法の抜け道として、政治団体として登録したのだ。 それを教示したのは、当時の広島の国会議員の一人である。 ただし、灘尾弘吉ではない。 さてこの二つの組織が、血を血で洗う闘争に発展した起点が、今私が住んで居る処から、東に400m。 現在、「安佐北区 区民文化センター」になっている所にあった、「可部ジャングル温泉」であった。 この温泉で、のんびりと湯につかっていた「共政会」の幹部が、襲われたのだ。 銃声と共に、一人は即死、今一人は重傷を負った。 ここからが、かの映画、「仁義なき戦い」の始まりだった。 不思議なのは、「共政会」の名付け親の国会議員と私は、昭和40年(私が二十歳の時)「藤山政治大学」で知り合い、その後、其の国会議員の経営していた建設会社の仕事を度々したのだった。 「藤山政治大学」とは、元外務大臣「藤山愛一郎」が、「若者に政治に関心を持ってほしい」との思いで始めた講座で、三泊四日でその中で、当時の日本の政治と、文化の中心で働く方たちの「講義」を聴くものだった。 その最後に、与野党に分かれて議論する場が有り、私はくしくも外務大臣の役を仰せつかって、野党に成った連中の論を、木っ端みじんに論破してしまった。 その結果、開催場所であった、「広島文教女子大学」の、学長さんに気に入られてしまった。 この方は、宮澤喜一の従姉妹にあたる方だった。・・・・・  話が長くなったので本日はここ迄。 下らない話でございます。

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