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 藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

石綿暴露と肺癌

2012-08-25 20:39:15 | 社会・経済

盆明けから急に肺癌患者からの相談が急増した。主にA病院に入院中の患者さんからである。

患者さんの職歴は、大工、船員、荷揚げ、タイル工。何れも肺癌である。

何れも石綿粉塵を浴びた可能性が確かに存在する。何方も、市議会議員が発行している議会便りを読んで相談に見えられた。肺小細胞癌1、原発性肺癌2、中皮腫1計四名である。

何れも健康管理手帳を取得されていない。中皮腫の方は、自動的に救済対象になる。ただ時間が掛かる。どの様にしてアスベストに暴露したのかの証明がなされれば良い。

船員さんは、年金記録で証明が可能である。問題は大工さんとタイル工である。週明けから本格的に職歴を聞き、証人探しを始めなければ成らない。

20日から体調が良くない。浮腫みがひどく、利尿剤を使用すると朝と夕方とでは2.5kgの体重差が起きる。腎臓が悪いのでもない。精密検査でも不明である。

血中酸素係数が、90にまで下がってしまい、回復しない。医師も頭を抱えているだけである。石綿疾患の特徴は、スロープ状に悪化するのではなく、階段状に悪化するようである。つまり、ある時突然に体の異変が起き、高齢化のためであろうと思い、仕事の一線から退く、大体に60歳前後。その後5~7年後に中皮腫や肺癌を発症。どうも共通している。特に喫煙者にそのパターンが多いように感じていたが、先日入手した厚生労働省の内部資料の中に、はっきりと示されていた。

厚生労働省の見解は、石綿暴露無し、非喫煙者の肺癌発生状況を1とすると、石綿暴露無し、喫煙者の肺癌発症率は、10.85とし、石綿暴露有り、喫煙者の肺癌発症率は、53.24と計算している。

この数字を元に労災認定をしているようである。ここに大きな落とし穴があることを厚生労働省は気が付いていないし、アスベスト裁判でもいまだ触れられっていない事実が存在する。

嘗て、専売公社時代に発売された、フィルター付きタバコのフィルターは、全てアスベスト製であった事実である。事実、嘗ての専売公社職員から中皮腫患者が、発生している。ただ国が、ひたかくしにしているだけである。

これ等の資料が何故内部資料として存在し、公表されないのか。それはただ労災隠しの為である。肺癌の大きな原因を喫煙に結びつけ、労災不認可の材料にするために存在する。

嘗て、専売公社に席を置かれた方で、アスベスト・フィルターが、何年まで使用されていたかご存知の方、情報をいただければ、多くの肺癌患者が救済の道が開けてきます。ぜひご協力ください。

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如何様な表現・東京電力

2012-08-22 10:48:45 | 社会・経済

福島原発沖合い20kmの所で取った「アイナメ」が、セシューウムに汚染されていたと報道されていた。その汚染濃度は、安全基準の258倍だそうである。

報道機関の方の勉強不足も目に付く。安全基準そのものが、元来の自然界のセシューウムの濃度の何倍なのか見えてこない。安全基準そのものの科学的根拠は何なのか?。それは正しいのか。かりに自然界にセシュームが「0」とするならば、今回検出された値の倍数は、「∞」という事となり、「258」とは、桁違いと成る。其処に科学者や、東電の発表される数値のマジックが存在するのである。

私達は操作された数値を知らされているに過ぎなく、今回の原発事故被害地で、帰宅許可された地区に、東電社員全員移住させて、事故処理に当たらせれば、無責任な操作した数値など発表されないであろう。

嘗て日本軍は、原子爆弾の研究に着手し開発を目指した。残念ながら当時、人形峠のウラン鉱床が発見されておらず、開発できなかった。その事は余り知られていない。「理化学研究所」 今の、「リコー」がその主な研究機関であったようだ。

日本国として毅然と、アメリカに対し不法兵機による攻撃として、抗議が出来ない一因が其処にある。裏返せば、日本が先に開発に成功していれば、立場は逆になっていた。

「ヒロシマ・ナガサキ」・「トウカイムラ」・「フクシマ」 四度の核被害者を出しながら、科学者や、企業体質、政治感覚が此れほどに改まらない国は珍しいと思いますが、皆さんはどの様に思われますか。

国と東電は、情報を小出しにして、被害者自らが故郷を放棄してくれるのを、待っているようにしか私には見えない。

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頭の中が混乱状態

2012-08-21 23:14:28 | 社会・経済

土曜日の経験以来、わたしの脳みそは混乱が続いているようである。

何を考えても纏まらない。古い事は良く思い出すが、昨日何をしたか皆目記憶に無い。行政書士試験の願書を郵送した事だけで、その他の事が思い出せない。

うーん!?。ついに後期高齢者現象が現れ始めたのであろうか。

63年前のこの時期は、何処で何をしていたかはっきり覚えている。昭和24年8月私は岡山にいた。母の姉と一緒に岡山に赴いた。

母の姉つまり伯母は、主人と連絡がやっと付き、岡山へ行く事になり、私を同行した。弟が生まれ、手が足りないからであった。どうゆう関係か、伯母の主人は私を大変可愛がってくれた。一時期は私を養子にほしいといい出し、それが原因で、我が家に出入り禁止となったが、その後も、一年に一度夫婦で広島を訪れ、校門の前で待ち伏せし、「旭旅館」で姉と私と二人は、母と父に内緒で会っていた。郵便局の預金通帳を作ってくれて、毎月小遣いを振り込んでくれた。それは、昭和三十年まで続いたが、その後父と母にばれてしまい、その後行き来が無くなったが、伯母が主人と死に別れ、広島に帰ってきてからは、この伯母にずいぶん可愛がられた。末の弟の子供などは、全て伯母が育てたようなものである。老後は、末の弟と我々兄弟で面倒を見た。87歳の大往生であった。

さてその伯母は昭和22年10月22日、ハルビンから引き上げてきた。その時の情景を、なぜか私ははっきりと覚えている。私2歳と6ケ月。船の名は、「宗谷」。そうです、南極観測船の「宗谷」だったのです。船は皆「宗谷」という物と六歳ごろまで思っていた。それくらい印象が強かったのであろう。

伯母の引き上げ時には、祖母と私の母、それに私は手を引かれて迎えに行った。姉は学校で行けなかった。

船上の甲板ではごく普通の人間が、ブリッジを降りてくる時は真っ白いお化けのような集団に変身していたので、怖くて泣いた記憶がある。

伯母が健在な時、その話をすると、ビックリされた。まったくその通りであった。DDTで真っ白くされた集団が降りてきたのである。面談は数分間だけで、直ぐに検疫隔離され、伯母は肺結核と診断を受けて、その後我が家で療養していた。伯母の主人は、満州航空きっての名パイロットで鳴らし、戦後一時期姿を隠した。戦犯に問われる可能性が有ったらしい。

満州航空は、日露戦争の名参謀、児玉源太郎の五男、児玉常雄が陸軍参謀本部付き 大佐を辞して渡満し、満鉄や、日本航空麦田平雄らによって設立され、伯母の主人も、児玉氏によって満州航空に招かれた事が、満州航空史に記載されている。

私の伯母は、私から見ても美人であった。宮島の「亀福」という一流旅館で働いている所を、法外な条件を提示され、奉天ホテルの客室係として、満鉄役員に引き抜かれて渡満したそうである。

ちなみに、「亀福」の娘さんが、石原慎太郎や、裕次郎のお母さんである。

それは祖母を養うためであったらしい。その覚悟は相当の覚悟で、避妊手術を受けて渡満した。一生独身を貫く覚悟であったらしい。女性単身での渡満は、2人目であったようである。昭和6年18歳であったそうだ。その後、昭和8年、後の主人、T氏が陸軍参謀本部付き、操縦士を離れ満州航空にやってきた。その人物は満空の伝説の人物で、最初からチチハルの飛行場と、ハルビンの飛行場の管理を任されたようである。本社会議の時、奉天ホテルに泊まり、伯母に一目惚れだったそうである。結婚を嫌がる伯母を強引にハルビンに同行し、白系ロシア人の別荘を買い取り、其処の管理人にしてしてしまった。部屋数が26あったそうだ。

河西街という一流別荘地である。ここで下宿屋をしていたが、下宿人の世話を一切してはならないといわれたそうで、私が理解できる年頃になると、あの下宿屋は、スパイのアジトだったのだろうと、話したことがある。

本宅は奉天の竜生街にあり、二週間に3日、ハルビンに行き、一階のホールのみ掃除して帰ってきていたようである。私の姉は良く同行して、松花江の護岸の杏の花が見事であったと今でも語る。

そのハルビンにいる時、ソ連軍が侵攻してきた。男勝りの伯母は、日本人家族を助けるため最後まで、ハルビンに踏みとどまった。そして昭和22年10月22日、宇品港に「宗谷」に乗って帰国した。

その伯母に同行していった岡山の1年半の暮らしは、夢の中の暮らしであった。

T氏の実家は、桃農家でも指折りの農家であり、地元の小学校にT氏が満空時代に寄贈した飛行機のプロペラが飾ってあった。

岡山県農協の戦後の発展に尽くされた丹原氏の話を聞く機会が有り、私の記憶する限りの話をしたところ、まったくその通りであった。

一度墓前に行きたいと思っているがいまだ果たせずにいる。

終戦の日から引き上げが始まり、いつまで続いたのかは、私は知らないが、二人の同級生のお父さんが、シベリアから昭和30年突然帰国され、戸惑っていた友の顔が、今も目に浮かぶ。彼らも今や67歳当時の気持ちを聞いて見たい気がする。

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国会議員の質の低下は誰の責任か?

2012-08-19 16:17:17 | 社会・経済

Photo 突然の夕立である。此れで少しは涼しくなるだろうか。西の空は晴れ渡っている。

昨夜 NHK BS-1で、イタリア北部群発地震の際、政府が出した安全宣言に対し、業務上過失致死が問えるかどうかについての、取材ドキメントを放送していた。

考えてみると日本人は、大人しいと思える。原発が安全であるといい続けた学者や、政府関係者の責任は誰も追及されていない。水俣病、イタイイタイ病位で、そのほかの公害裁判で、国の責任を認めた判例はほとんど知らない。しかし、欧米諸国、特にアメリカにおいては、取締りの法律が作られなかった事が違法性があり、国の責任を明確に認め、賠償責任を認める事が多い。それで作られた「製造物責任法」等はその典型である。

今回の「原発事故」について、安全だといい続けてきた科学者の皆さんは、自分の良心に対しどの様な気持ちなのであろうか。嘗て、「カネミ油症事件」が発生したが、未だに保障されていない。保障すると会社が倒産するからだそうである。

そうした時の為の法律が存在しない。立法権は国会にある。国会議員の意識の無さが根底にあり、国民救済のための法律が存在しない。原発を再稼動するなら、事故時における補償までも盛り込んだ特別法が必要である。その保障範囲を国が管理すると、巨額な管理費が電力会社に必要となり、原発が割高な発電施設となれば電力会社が原発から撤退する。今まで使用済み燃料の保管や、処分に関する法律が余りにも電力会社の言いなりの方法で処理されてきた結果が今回の福島の事故なのだ。アスベスト然り。PCB然り。劣化ウラン然り。何らかの事故で、自然界に放出されるとどうなるのか、国会議員の皆さん良く考えてください。立法権は国会議員のみに与えられた権能なのです。

一票の格差も、我田引水の考えを改め、百年の体系を打ち立ててほしいものです。次期国会議員は、自らの権能を自覚し、弱者救済の考えに立った政治を行えば自ずと、景気回復に通ずると思いますが皆さんはどうお思いですか。

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死語になった「ケロイド」と不思議な一日

2012-08-18 20:07:49 | 社会・経済

私も、長く遣ったことが無い言葉を思い出した。乗った電車の中で。

「ケロイド」 原爆といえばこの言葉が、枕詞のように使用されていたのは、いつの頃までであろうか。

幼少期には、同じ町内に幾人も「ケロイド」を纏った人たちがいた。

原爆による熱線で、火傷した人達の皮膚が引きつり、盛り上がり見た眼にも痛ましかった。 それを「ケロイド」と呼んでいた。 私の五歳くらい上級生から上の学年で多く見かけた。「原爆乙女」と呼ばれる少女が、「ケロイド」の整形手術のため渡米したのは何年頃であるのだろうか。

確か私が十歳の頃ではなかったろうか。昭和三十年の事であろうと思う。私の記憶では私の町内からも一人、渡米した方がいたように記憶している。米軍のジープが迎えに来て、岩国米軍基地から東京に行き、渡米治療された。その方はそのまま米国に定住されたように記憶している。ご両親が原爆で無くなり、孤児であった様に記憶しているが、定かでない。 米国人の養子に成られた事だけは、大人の会話から聞き覚えている。

さて「ケロイド」の事を書こうと思ったが、今日一日が余りにも不思議な一日であったからその事から書く。

私が広島へ出るには、三つの方法がある。自家用車・路線バス・JR可部線。

最初自家用車で出かけた。広島の目的地「三篠公民館」まで、5kmの所で信号待ちに成った。ふと左手を見ると、ガラス「遊工房」という看板が目に入り一瞬「?」どこかで見たことのある名前?。そう「ブログで」と思った瞬間ハンドルを右に切って、スーパーの駐車場に入れていた。

どんな会社なのか覗いてみたくなったのだ。残念ながら本日お休み。其処からが気まぐれな私は、「そうだ此処からJRで行こう、駐車料金が助かる。」そのスーパーは、素通り。そこからJRの駅まで歩いて十分。途中に、以前市議会議員をされておられた方の家の前を通る。久しぶりに挨拶だけしようと、歩き始めてスーパーの側道に出ると、一角が工事現場に成っていて、マンション建設の真っ最中。

その現場の看板の横に設計した事務所の看板。

見てビックリである。 「遊工房建築設計室」と書いてある。「今日は不思議な日だな」と思いつつ、電車に乗った。座席が一つ空いている。 助かった 。座って左のお客さんを見ると、親子三人の旅行客の様である。そのお父さんの右腕に、大変ひどい火傷の跡があり、「ケロイド」という言葉を思い出し、「原爆の子」の映画を撮った、新藤兼人監督が、今年亡くなったのを、思い出していた。

昭和四十一年八月に、私の友人が紹介してくれたのが、この新藤兼人監督で、話をするうちに、私の母の父の実家と、同じ石内の生まれだということを知った。紹介してくれた友人は、広島市映像文化ライブラリーの館長を勤めたS氏で有るが彼は「原爆の子」に出演した関係で親しくしていたのである。

「今日は何か変な調子だなー。」と 思いながら横川駅で下車。 思ったより早く着きすぎたので、コーヒーが飲みたくなり、十数年前よく行った喫茶店が、今もやっているかと、五分ほど歩いていってみた。 喫茶店は有った。だが名前が変わっていた。

「喫茶 遊工房」 。 「な、なんでこんな日にカメラを持っていないのだ・・・・。」

だが、此れだけでは終わらなかった。三篠公民館に着くとロビーで、「新藤兼人監督」特別展示をしていた。それで再びビックリ。私の友人S氏が、新藤兼人監督と記念撮影した幼き日の写真があるではないか。 以前S氏の自宅で見た写真である。そのS氏も今は鬼籍の人である。私より十歳年上。生きていれば、七十七歳。

はたまた、それだけでは終わらなかった。 特別展の写真の中に、石内尋常小学校の卒業写真の中に、叔父の名前と姿があった。なんと同級生だったのだ。

「アスベスト患者と家族の会」の会合中、頭の中は何かぐるぐるしていた。

不思議な一日であった。が、それと共に思ったのが「ケロイド」と渡米した「原爆乙女」がその後どの様な人生を送ったかである。

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