藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

遥か昔を思い出した(4)・・・

2023-12-26 16:04:07 | 日記・エッセイ・コラム

 己斐の町(現在は広島市西区己斐)は、その歴史は深い。 神功皇后が三韓征伐された時、西に向かう途上で、この街の浜辺に立ち寄られた。 村の人々は歓迎して、「鯉」を料理してもてなした。 喜ばれた神功皇后は、以後この村は、「己斐」(こい)とすると仰せになった。 この古事を物語る神社が、山陽本線のすぐ上にある。 標高150m。その山頂からは、広島市内が一望できる。 この山を「旭山」と呼び、神功皇后と共に宇佐八幡神社のご神体がともに祀られている。 嘗てここ迄が、宇佐八幡神社の影響圏の、東の最先端であったそうだ。 すぐ下を八幡川が流れていて、嘗ては三篠川と合流して、瀬戸内海に注いでいた。 嘗ては広島の地の西の玄関口であった。 その為、広島電鉄もここを起点として発展した。西に宮島(日本三景の厳島)を控えていたからだ。 国鉄の己斐駅と、広電己斐駅の間は、広い広場に成っていて、戦後此の広場が闇市となり、広島市内地一の規模であったそうである。 物資が豊かな佐伯郡と、北は緑井、可部。 東は西城、呉からの闇物資が、国鉄や、深夜に船で島々から、運ばれてきたそうだ。 我が親父様も、戦後の一時期、闇物資の運搬で、糧を得ていたそうだ。 その方法は、公人の用意した物資(炭)を、馬車で運ぶのだ。ただ運ぶのではない。 途中で、炭と米を入れ替えて運ぶのである。 米は、己斐の町で下し、入れ替えた炭は船で先回りをして、住吉神社の境内で、再びすり替えたのだそうだ。 当時広島市内には、焼け残った建物は、今話題となっている、「被服省の赤レンガ」の建物以外なかったので、そこに県会議事堂や、県庁が一時的に移転していた。 赤煉瓦の建物は、現在の建物の数倍存在した。 広島大学医学部の附属病院の多くは、其の赤煉瓦の建物であった。 私は、16歳の時、八月の終業式の朝礼で倒れた。 貧血であった。そのまま大学病院に入院、「再生不良性貧血」と診断されて、長期の入院となった。 原爆が原因なのか、はたまた、他の原因が存在するのか、結論がなかなか出なかった。 入退院は三年に及んだ。 その過程で、かの「仁義なき戦い」の方や「共政会」の親分と同室となり、顔見知りとなった。 がしかし、それ以上に我が親父様は、この親分に多大な「貸」をこの病院で作ったのだ。 その話は、次回詳しくお話しする。

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2 コメント

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親分に (P)
2023-12-27 03:23:32
貸しを作るとは、しかも多大な貸しとなれば興味津々です、
なにせ私は喧嘩が好きよ、
それに親分より父君の方が大親分ですもん(´∀`*)ウフフ
そこのチカラ関係の原因が知りたい!またね。
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Unknown (natu)
2023-12-27 19:02:14
Pちゃんと同じく興味津々です。次回が楽しみで~す。
返信する

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