藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

ちょっとお休みします。

2015-09-28 11:26:25 | 日記・エッセイ・コラム

明日から入院。 二週間くらいの予定です。 前回の入院と違い、なんだか物見遊山気分です。 

確実に回復することが分かっているからでしょうか。 留守中の奥様の方が心配です。 ま!、お友達が留守中はサポートしてくれる事を期待して、ゆっくり静養してきます。

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再び入院予定

2015-09-25 19:32:02 | 日記・エッセイ・コラム

外来での診察結果、来週火曜日に入院の運びとなった。 錠剤での抗生物質の投与が、予定より効き目がない無い事が解り、再度入院して点滴治療を行うのである。

再度入院時の期間は二十日間。 少しばかり家を空ける事に成る。 帰宅時期は十月中旬。 孫の運動会には行けそうに無い。 残念である。 

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今日も今日とて

2015-09-24 01:41:24 | 日記・エッセイ・コラム

 午前零時に目が覚めた。 ラグビーも見たいが、少しでも体を休めた方が良かろうと布団の中でぐずぐず。

次回の「八雲会」には参加したいと思っていたが、どーも無理なようである。 頭痛が取れない。 視力が左右バラバラのままで、定まりがない。 いつ降り始めたのか「雨」である。 なるほどと納得して、「頭痛」の原因が天気の所為だと決めて「痛み止め」を飲んでみた。

 入院中なら、即刻看護士の世話になるのだが、「自己判断」で痛み止めを飲んで「様子見」である。 深夜の入院病棟は、患者八十人に対して四人の看護士で対応していた。 大変重労働だと、他人事のように感じていたが・・・・・。

 早朝のお茶の配布から始まり、消灯時間の見回りなど、すべてコンピュウターで管理されていて、二年現場を離れていると、職場復帰が難しいそうである。 そんな入院中の看護士とのやり取りを思い出していると余計目が覚めてしまった。 深夜の雨は妙に生暖かい風を運んでくる。 この数日夜間の冷え込みが激しかった分、異常な感がある。 遠くから消防のサイレンが聞こえてきた。 この所、近隣での火災が多い様である。

 

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今日も退屈

2015-09-22 10:34:12 | 日記・エッセイ・コラム

 本日もただただ退屈である。 出かける目的が存在せず、出かける体力もない。 言うなれば「開店休業」である。

 写真の整理をしていたら、奥様が通った大学の写真が出てきた。

 三十歳から通った「広島文教女子大学」である。 当時の受験勉強を思い出した。 仕事から帰った私が、食事しながら「日本史」や「数学」を教えていたが、一度の受験で合格できるとは思っていなかった。 面接していただいた広島大学名誉教授兼任であった「岩佐」先生のお眼鏡に叶い「合格」させていただいたようだ。

 子供の病気で学校を休むと、年下の同級生から電話かかり、「先生がなぜ休んだのか電話で聞くようにと言われて電話しています」と電話がかかってきた。

 「岩佐」先生は「神皇正統記」で知られた国文学者であった。 その先生が学校から帰宅されるときには、この正門に立ち学長室に向かい一礼されていたことを奥様は感激し、帰宅すると私に熱く語ったのがなんだか数日前の感じがする。 

 今は「小泉八雲」の顕彰会に参加して「風呂」先生の感化を受けて毎夜英語のお勉強をされている。 何れにしても学ぶことを、彼女に授けてくれた学校である。

 娘もこの学校で学んだ。 卒論が高く評価されて、特別に出版して頂いたのが数年前のような気がする。 その女性軍の母校は、私が入院していた安佐市民病院の東側、根の谷川の向こう側にある。 もともと文教女子大学は、この安佐市民病院の地にあったのです。

 

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退院から九日

2015-09-20 20:34:40 | 日記・エッセイ・コラム

 退院以来、初めての外出をしてみた。 外出と言っても精米に出かけてみたのだ。 奥様の実家で頂いたお米の精米に出かけてみた。 何処か運転が覚束ない。 左右の目の視力がバランスを失っているようである。 

 デジカメの手入れをしていると、入院中に撮影した写真が出て来た。

 私の体に付けられていた機材の写真だ。 心臓のモニターである。 なんでこんな機械に繋がれていたのか今頃理解し始めた。 「マダニ」の傷口から侵入した「病原虫」が、心臓の筋膜や神経に侵入すると心臓麻痺を起すからであったようである。 一週間機械に繋がって生活した。 計測数値は無線で看護士の詰所に伝えられて監視されていた。 二十四時間監視下に置かれたのは初めてである。 

 トイレも付き添われて行ったが、三日目からは機械を持ったまま出かけた。 午前中は点滴。 昼からは安静。 ただただ寝るだけの生活である。 五日目から二日に一度のシャワーを楽しんだがそれも二回きりであった。 この病気の特徴は、抗生物質が劇的に効くことであることを実感した。 一週間目には背筋が伸びて、病院内を徘徊していた。 それだけに、服薬になったとたんに一時的なのであろうが痛みやしびれが舞い戻ってきた。 どうもこの状態が最低二週間、長い人では一年間続くようである。 

 はたして私はどちらなのであろうか。・・・・・・・・・

 

 

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