藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」     絶滅危惧種「社民党」

2013-06-30 13:47:37 | インポート

003 午前五時東の空は朝焼けである。 今日こそ良い天気になってくれると思いきや、午前中はずっと曇りである。 

自ずと私の体は悲鳴を上げている。 呼吸は三度に一度は深呼吸。 絶滅寸前である。 

絶滅といえば、「社民党」も又、絶滅寸前である。 「絶滅危惧種」と言っても良いくらいである。 「護憲」 「脱原発」をずっと言い続けてきたが、今ひとつどこか「魅力」にかける。 それが何かは私には解らないが、嘗ての「社会党」の時代と違い、どこか国民に擦り寄っているように感じてならない。 孤高の美しさがなくなったように思う。 要するに「がむしゃら」な所が無くなったように感じてならない。 

「がむしゃら」=「純粋」 どこか一部が隠れているのではなかろうか。 近年「社民党」の 「髪振り乱し、必死の形相」の選挙を見たことが無い。 ここは一度、「労働運動」の原点に立ち返り、がむしゃらな選挙を見てみたいものである。

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深山 霞の「霞的心」   鴬張りの我が家の廊下

2013-06-28 22:49:22 | 社会・経済

先々週から我が家の廊下が鴬張りになってしまった。

先週床下に潜り込み原因を見つけておいた。 しかし一人在宅時に作業中に、事故になるといけないのでおくさまの年休日を待って修理。

床下に潜り込むこと2時間。 すっかり修理を終わらせた。築五十年経つと家ももう限界が来つつある。 

団地の開発工事が悪いため敷地の不等沈下を起こし、その直し工事を、一昨年は3週間かかって家を水平に直した。

一人で床下に潜り込み、大引きを持ち上げ、家を持ち上げ水平にした。 ひとりでコツコツやる仕事は、誰に文句を言わなくて良いので、気持ちよく完成させた。 

外壁に起きていたクラック(ひびわれ)も全て直し、外装の吹付けも自らの手で行った。その工事の時、洋間の床は張り替えておいたが、廊下は手付かずであった。 やはりガタがきて、ついに我が家の親分のおデマシとなった。 鶯張りの廊下は見事蘇り、奥様が飛んだり跳ねたりしても今後十年は保証する。

その後は私がこの世にいないので、野となれ山となれである。。全て工事完了してから、工事写真を写しておけばよかったと気付いたが、後の祭りである。

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深山 霞の「霞的心」 黒い雨ー2

2013-06-27 21:36:21 | 社会・経済

001 黒い雨の帯封を見ていて気付いたことがある。 当時定価430円で発売されたのだ。

昭和41年当時、運転免許を持ち、一流の職人の月給が、3万円。 この金額は広島では破額の給料であったはずである。

私が惚れ込んで雇った同じ年の職人さんで、彼は戦争孤児であったが、おばさんに育てられ琴造りの職人をしていたが、時代が琴からギターに変わりつつあった時代で、悩んでいたところをスカウトした。 当時の建設工事は、雨が降れば仕事は休み。 晴れれば残業で取り戻すそんな時代で、彼は何一つ文句も言わず働いた。 私の信用の半分はそうした人材を多く抱えたからである。 やっと始めた仕事が軌道に乗り、余裕が出来たのが、昭和41年であった。 その年の十月「黒い雨」が私の手元に届き、「この数年来、小畠村の・・・・で始まる、330ページの小さな文字のこの本を一晩で読み尽した。

旧制広島二中の学徒動員の生徒が、広瀬橋の上で朝礼中に被爆し、全員が被爆。 指導教師は、「海ゆかば」の歌を全員に歌わして後、我が身を天満川に投じたそうである。場面では、場所が具体的に分かるため、思わず涙が湧き出たのを思い出した。

この被爆した二中の生徒の中には、私の母校の「己斐国民学校」まで逃げてきた生徒が一人だけいた。 他の生徒は、指導教員と運命を共にし、満潮の天満川に身を投げたのである。 たった一人、取り残された子は、伝令として「己斐国民学校」まで二中の生徒が全滅したことを伝えるために、派遣されたのである。しかし私の父の友人の子供は、二中の生徒だが当日麻疹になり休んだために命長らえた。

309ページの、八月十三日の項には次のような一文がある。

看護婦たちの語り合っている雑談でピカドンの正しい名称が分かったそうである。

「ピカドンは、原子爆弾というのが正しいそうだ・・・・・・」 被爆一週間後には、その正体が正確に市民に知れ渡ったことに驚く。 この事は、日本の陸海軍も「原子爆弾」製造にお向け研究をしていたからである。

今私の手元には、「原爆戦災誌」のダウンロドしたCDが存在する。昭和55年、広島市周辺町村に残る原爆に関する資料を体系だてて整理収集されたものである。

もしこのブログをお尋ねの皆さんで、是非とも読んでみたい方は、無償でコピーし提供いたします。 広島市には了解済みです。 ただ1408ページの長編です。このブログのコメント欄で、非公開の文字を記入の上住所氏名をお教え到ただければお送りします。 お送りしたあとの住所氏名は全て抹消致します。

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深山 霞の「霞的心」   井伏鱒二「黒い雨」

2013-06-26 22:14:54 | 社会・経済

002  二十数年ぶりにこの本を手にした。

「黒い雨」の初版本である。

昭和四十一年、出版される前から、井伏鱒二のファンの私は予約して手に入れ読みふけった。 彼にしては珍しい長編のもので、一被爆者の日記を元に書き下ろされたものである。

しかしその後、日記の所有者とその内容のことや、我々にはわからない理由で増刷されなかった。 それだけに二十数年前、姪が、大学のレポートの題材にこの本が選ばれが手に入らず、私の本を貸出した。、本は学生の手から手へ渡り、いつの間にか行方不明になっていた。 仕方ないので市内の古本屋に、入荷すると知らせて欲しいとおねがいしておいたが、知らせは来ことはなかった。 ふと一昨夜インターネットで検索してみると一冊だけ初版本が東京都内に存在した。 値段など気にせず、速達で送っていただいた。 紛れもなく「初版本」である。 外箱の絵はどくだみ草の花である。

被爆者の多くが、被爆後原爆症を発症したとき、「どくだみ」のお茶を薬がわりに飲んだそうであるが、効き目があったかどうかは私には解らない。 私はおばの農家の畑で育った「トマト」の絞り汁に、塩少々、砂糖少々を入れたものを水がわりに飲まされたそうである。 すると一度ぬけていた髪の毛が、生え始めたと、おばがいつも言っていた。 その後、不思議と、私は子供の頃から「トマト」が大好きで、果実の先が少し赤らんできたくらいが特に好きである。 完熟トマトはあまり好きではない。

これから三日間は、夜読む本に困らない。 もちろん「黒い雨」をできるだけ読み直してみようと思う。

ちなみに、井伏鱒二は広島県が生んだ偉大なる小説家である。

今考えてみると、昭和四十一年は不思議な時である。 広島市青少年センターの建設を文部大臣に直訴することを思いつき、吉永小百合に初めて会ったのもこの年で、広島市立大学の建設が決定されたのも、原爆戦災誌の発刊の検討を初めて頂いたのもこの年であった。 この年には、広島出身の芸能人が中心に「カープを優勝させる会」も発足した。

すべてこの本が機縁であったように思う。

この本は世界で初めて「原爆」をテーマに書かれた小説である。

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深山 霞の「霞的心」   早朝散歩

2013-06-25 20:00:44 | 社会・経済

002 午前六時、奥様と朝の散歩に出かけてみた。 

朝の散歩など、ましてや奥様同伴など数十年ぶりの散歩である。 陽が上がらぬ前にと思ったが本日は曇り。

上りの坂道など散歩できないが、少しでも体を動かしたくて出かけてみた。 

道道野草を観察しながら、奥様の和歌の講義を聞きながらの散歩であった。 

ミツバアケビの実が、気だるそうにぶら下がっている。 これも猿の餌になるのであろうと思いながら歩いていた。 歩きながらふと気がついた。 同じ曇りでも呼吸が楽な時と、背中から両脇にひどい痛みで、鎮痛剤を飲まなくては我慢出来無い時があると。

往復1時間弱の散歩であったが、多くの高齢者が早朝の散歩をなさっているようである。 健康管理には費用がかからない散歩が一番なのかも知れ無い。

それにしても里山の荒れ様は酷い状況である。 野生動物にとっては好都合の様だが、山が荒れると少しの雨でも土砂崩れなどの災害に繋がる。 

帰宅しネットで本日の天気図を見てみた。 我が家は高気圧の端っこに引っかかっているらしい。 その為不安定な天気なのだ。 同じ曇りでも、低気圧の端っこの時に体の変調が起きるのかもしれないと思い始めた。

それにしても我が家の奥様は、和歌に目覚められたらしい。 近所の同人雑誌を出しておられる方と頻繁に行き来し始めた。 

どうもブログで知り合った「みどり」さんの影響のようである。

参議院選挙が近いのに、周囲が妙に静かである。 ネットによる選挙活動が出来る様に成ったので、今少し賑やかになるかと思いきやそうでもなさそうである。 既に議員の多くは、ホームページを開設されているので、案外に大きな変化は無いのかもしれない。

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