藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

「少国民たちの戦争」を読んでふと思ったこと

2017-01-31 18:03:38 | 日記・エッセイ・コラム

 この本の中で、非常に興味を持ったのは、戦前の学校生活で生徒達が上履きを履いていたのかどうかであった。

 昭和27年入学の私が上履きを履いた記憶がないからで、皆履いていなかった様に思えてならない。 家に帰ると、麦わら草履で遊んだ記憶はある。 それは面白半分であって、下駄かゴム靴であった。

 ゴム靴をはくと、水虫に悩まされた記憶がある。その中で私が一番気に入っていたのは、竹の皮でできた草履で、これを履くと水虫が治った記憶がある。 効果の程は正しいかどうかは定かでないが。

 そんな中、四年生頃に草履の半分ほどの大きさの物を見つけて、買ってもらい上履きにした記憶がある。 クラスのみんなが不思議な目で見たのを覚えている。 

 検索してみたところ、「足半」という草履だそうである。

 

 今度は、草履(ぞうり)と草鞋(わらじ)はどう違うのか気になり始め調べてみた。 時代劇で三度笠の股旅者が履いているのが草鞋。「草鞋を脱ぐ」とは、草鞋生活から草履生活に変わることを指していることに気付いた。

これは草履。

 これは草鞋。

 草鞋は、江戸時代の旅には欠かせぬものであった。 馬や牛も草鞋を履いていたそうである。 今まで曖昧に記憶していたことが、案外に調べてみると新しい事実に突き当たる。

 固定概念を壊すことが如何に新しい知識を得る事かと考えさせられている。

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昨夜の傑作

2017-01-30 08:09:57 | 日記・エッセイ・コラム

 昨夜は一睡もできず、退屈しのぎに料理。 頂いた「からし菜」を、無駄にしないためにも早速料理。

先ずは調味料、

次に、

よくよく洗いと。

ごま油とお酒で豚肉を炒め、

からし菜をゆでて

 

水にさらし、

豚肉と炒め、砂糖、醤油、一味、「ほい」 完成と・・。

後はゆっくりと味をなじませて・・・・・・。 お昼の一品出来上がり。

鮭、タイの粗の吸い物、そしてこれが昼食。  さて、ゆっくり朝まで志村様から頂いた本よ読むとしよう。

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恐るべき 奥様の読書時間。

2017-01-30 00:57:12 | 日記・エッセイ・コラム

  このところ、寒気団に襲われて寝不足になってしまった。

外付けの温水器には、凍結防止がしてあるが、配管との隙間からの寒気が強すぎて凍結しそうなので、二時間おきに蛇口からお湯を出している。 今夜は寒気が弱まってすることがないが、夜昼の感覚が逆さまになり眠れない。 奥様は相も変わらず、八雲関係の本を手当たり次第に読んでおいでである。 

 その時間たるや、一日十四時間を超えているのではなかろうか。 学生時代にやっておれば東京大学でも・・・。 そんな感じだ。 よく続くものだと感心しているが、黙ってみている私も、少し変人なのかもしれないと思い始めた。 訂正、大いに変人であることは間違いない。 今夜は気温が上がってやることがないので、これから深夜の「料理教室」を開こうかと思っている。

 豚肉、からし菜の葉5~6枚、砂糖大匙1、醤油大匙2、酒少々、一味少々。 ・・・・・。 講座ではないので、詳しくは書かないが、奥様が明日の朝どんな顔をするか楽しみではある。

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これでも瀬戸内海気候?

2017-01-26 22:23:24 | 日記・エッセイ・コラム

-10℃、昨夜の気温です。 広島市は温暖な気候で知られた、瀬戸内海気候のはずが・・・・。 水道管が破裂するかもしれないので、一晩中眠れませんでした。 三晩続きの「低温警報」に振り回されています。 一時間おきに、蛇口をひねり確認。 放水の連続で寝不足。 頭朦朧・・・・・。 夕飯後少し横になったらそのまま寝ていたので今飛び起きて蛇口に・・・・。  水出ました。 今夜も-2℃。 「寝不の番」すべきか・・・・・。 今更凍結も悔しい心境です。  「奥様」ですか?・・断水など興味はなさそうです。

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被爆建物

2017-01-25 12:51:35 | 日記・エッセイ・コラム

 被爆建物「善法寺」です。 私が生まれた家の北東に位置し、原爆投下時爆風を和らげてくれたのではないかと思っています。 私の誕生日が、4月8日なので「花祭り」と同じ日。 この寺の「甘茶」が、誕生祝の様なものでした。  

 原爆投下当時、己斐西本町の善法寺では三菱重工業広島機械製作所の人事課が疎開してきており、本堂を事務所として仕事をおこなっていました。 爆心地から原爆の爆風により、本堂と庫裡の屋根や天井の大部分が落下し、本堂にいた職員の多くが負傷しました。被爆後は、傷ついた人たちの救護所兼遺体収容所として役割を担うことになりました。 戦後いくたびかの修復工事を経るも、本堂は今も戦前の姿をとどめています。 仏壇の後ろに、名前が判別できる450名の原爆被災者の遺骨が長く保管されていました。

 今もその氏名の一部が公開されています。 遺族探しはまだ続いています。

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