藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

広島市長選挙

2015-03-31 10:23:17 | 日記・エッセイ・コラム

国際平和文化都市「広島」の市長選挙が告示されて三日目である。 なんと盛り上がらない選挙であろうか。      「おぼちゃま市長」の対抗馬がどこか抜けた候補者ばかりである。 戦後の「広島市長選挙」最低の候補者と言って過言でない。 広島も人材不足に陥っている。  被爆70年を迎える今年、なぜこの様に広島の町は停滞して見えるのだろうか。 

そうした中、「広島カープ」だけが、はつらつとしてファンを引き付けている。 「黒田」の「野球人生の最後は、自分を育ててくれた広島で」の気持ちから、大リーグから古巣広島への里帰り復帰が、市民球場へ三万余のファンを呼び寄せ、TV視聴率39%を記録したそうである。

この後、四月三日には市議会議員選挙が告示され、四月十二日深夜に「当落」が判明する。 絶滅危惧政党「社民党」の若き現職議員「山内まさあき」の再選を勝ち取るべく連日、知人、友人、同級生と手当たり次第に支持のお願いをしている。

 四十一歳の若さではあるが、この四年間「石綿被害者救済」や、「高齢者問題や少子化問題」、「障害者就労支援」に真剣に取り組んでくれただけに、何とか再選をと「老骨」に鞭打っているが、私には「一票」しかない。 「多くの方々の力を借りねば成らぬ。・・・・・」

「脱原発」 「平和文化都市広島の建設」 ・・・・・・。 何だか自分が候補者気分になってきた。 「皆様のお力をお貸しください。 [山内まさあき]を再び議会にお送りください。 皆様のお声を市政に反映してまいります。」 何だか「街宣車」のマイクを持った気分に成ってきた。・・・・・・ 少し力が入りすぎているようだ。 

 

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サイタ サイタ サクラガサイタ

2015-03-30 12:18:04 | 日記・エッセイ・コラム

国語の最初の授業はなんだったのか覚えていないが、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」というフレーズだけが体に染み込んでいる。 三日間の好天で、一気に桜が満開になってしまった。

四月三日からの市議会議員選挙で、「絶滅危惧種」、社民党の若き議員「山内まさあき」再選をと応援しているのだが・・・・。

    

早稲田大学法学部卒業の「美男子」なのだが、それだけでは当選できない。 選挙は魔物。 開票時点まで解らない。 前回は新人ながらみごと当選した。 

一昨日の午後、本人ともども「私の知人友人」を訪ねて、支持のお願いをしてきたが、投票に行っていただけるのかどうかが・・・・?。 高齢化の波で投票所迄が遠い。

投票率が下がる中、選挙法整備が進まないので棄権が増えてくる。 十八歳まで選挙権を与えても、高齢者の足代わりにはならない。 どなたか良い方策を考えてくれないだろうか。

たとえば、在宅投票制度など・・・・・・。 投票所が巡回してくる・・・高齢化社会で、これくらいの機構改革を行わなくてはと思っているが、「国会議員」さん如何なものでしょうか。

 

 

 

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新しい文面が浮かんでこない?・・・・・。

2015-03-12 21:00:34 | 日記・エッセイ・コラム

奥様に引かれて、「広島ラフカディオ・ハーンの会」に参加させていただいたのは、数ヶ月前からである。 主催されている先生が私の母校の先輩で、こんな先生に英語を教わったなら、私が英語難民には成らなかったであろうと思われる程の先生である。 会員として取り巻く先生方は、何れも「広島大学」名誉教授をはじめとする、広島では名だたる英語の先生だ。 そんな会とはつゆ知らず、「押しかけたのが運の尽き」、毎月の宿題が大変である。 しかし、私には私の「八雲」に対する思い入れがある。 そのへんの主張を、「受け入れていただける」 そこが不思議な空間を持った会などである。 考えてみると、当たり前なのかもしれない。英語の出来が悪い生徒が一人増えてだけの感であろう。 大半の会員が、英語教育の一線で名をなした方たちなのだ。 私の発言などは、むしろ新鮮に感じていただいているのかもしれない。 私の考えは単純である。 考古学的、民俗学的なのだ。 証拠中心主義である。 私が「八雲」の虜になったのは、十七歳のときである。 入院中の私に、大学病院の先輩医師が、英語の学習の為に差し入れてくれたのが、「怪談」の英語原文だった。 辞書と共に一年間暮らした。 英語試験にはこまらなかったが、話すことは出来なくなった。 それから六十年、英語に向き合ってみると、教わった先生によって、子供たちの運命が大きく変わる事が認識できた。 しかしながらその反面、民俗てき慣習や、神道の風習や、仏教の文化の中での英語文学など、その文化の違いが把握できていないように思えてならない。 たとえば「NUN」という単語を日本語に訳すと、「THE NUN’S STORY」 は、「尼僧物語」と訳された。 「THE NUN OF THE TEMPL OF AMID」を最初に翻訳したものが、「阿弥陀寺の比丘尼」と訳した。

「尼僧」と「比丘尼」の違い何であろうか調べ始めると切がなくなってきた。 「NUN」の定義に始まり、「比丘尼」の定義までは来た。 これからどれほどの時間をかければ、満足できるところに行き着くのやら・・・・・・。

おまけに、「浜田広助」の童話を読んだら止まらなくなった。 古本で取り寄せて既に三冊読んでしまった。 彼が出している「童話」集はいく冊あるのだろうか。 すべて読むことが出来るだろうか。 ・・・・・・・すべて読んでみたい・・・・・。「涙を流しながら。」 今もインターネットで探している。

 

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スマホの威力?・・・。

2015-03-01 15:06:45 | 日記・エッセイ・コラム

川崎の「中学生殺害事件」の犯人像が、早くから「ツイッター」で流れていた。 私も早くからこの情報に接していた。 同世代の子供たちが、警察よりも早くから情報を手に入れて、「スマホ」で情報を拡散させていたようだ。 しかも、「写真」付である。 その結果、犯人は逃走をあきらめたようだ。  

スマホを使わない私には理解しがたいが、その情報がかなり正しく犯人像を炙り出していたのには驚くばかりである。 世の中、ネット社会(スマホ社会)になった事を実感させられている。 それにしても「国民投票制度」は、疑問に思い始めた。 現在の法体系の中で、権利ばかり低年齢化させていくと、恐ろしい社会が来るのではなかろうかと思い始めている。 未成年、特に18歳以下の少年犯罪者は、「法的保護」により厳罰に処罰されることは無い。 人一人殺しても、長い刑期を科せられることなど無いのだ。 

教育現場などでは、教員の暴力は咎められるが、子供たちの暴力は咎められない。 「子供とは未成熟である」という概念が先行して、野放し状態であることは確かである。 結果、大人の足元を見透かされて、犯罪がエスカレートしているのではなかろうか。 

なんだかこの辺りにも、「現在の教育制度のあり方も見直すべき」という根拠になっていないだろうか。 市民感情のこの心の隙間をついて、「保守回帰」論者は、「国の管理教育の実践」を行ってはいないだろうかと、疑ってしまう。 高校教育の無償化は、悪い意味での競争意識を植え付けてしまったように思われてならない。 旧制中学の復活を予感させるところがある。 つまりに子供を、四極に選りすぐる事が始まったように思えてならない。

一、出来の良い教師  +  出来の良い生徒

二、出来の良い教師  +  出来の悪い生徒

三、出来の悪い教師  +  出来の良い生徒

四、出来の悪い教師  +  出来の悪い生徒

これらの組み合わせによって、子供たちがどのような成長をするのか想像すると・・・・・・・。

これらの事は、親の経済状態にも当てはまる。 この問題解決のために、高等学校の無償化がなされたが、果たして当初の目的通りの結果をもたらしているかというと、いささか疑問である。

「格差社会」の根本的解消が無い限り、四つの組み合わせはすべての場面で作り出されて評価されていく。行動が常に評価がなされることに、反論するつもりは無い。 問題はその先である。 評価が低いからといって、当事者の人間としての権利は保障されるべきだと思う。 それがなされない時に、格差が発生し問題が発生するように思えてならない。 このままで「子供」の未来は日本にあるのだろうか・・・・・・・・。

 

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