死別シングル奮闘記

夫の死を乗り越えて2人の子供と頑張って生きる母の日記です

川口マラソン

2017-12-15 08:42:49 | おでかけ
すっかり遅くなりましたが、12月3日に川口マラソンに参加して来ました。

マラソンって言っても私が出たのは3キロの部。
3キロぽっちか~、なんて言わないで、思わないで!!って言うくらいつらかったし大変だったわ。

去年の娘の川口マラソンを見て、高校生から60代までは同じグループで走れるし、頑張れば3キロ15分くらいで走れるんじゃん?私!!って思って。

「来年は一緒に走ろうよ」と言ったのが運のつき。おまけに15分台で走って、50位以内に入るからとまで宣言しちゃいました。

で、夏の終わりにエントリー開始になったときに、娘から「今年は一緒に走れるね♪」なんて言われちゃって、後戻りできずにエントリー。
そこから猛特訓!!家の周りで1周1キロのコースを見つけ(と言うかいろんな道を走るコースを作り上げ)毎日走りました。
最初は1キロ7分台だったのですが、最終的には1キロ5分台に乗せないと15分は無理。なので、3ヶ月くらいで1キロ2分は早く走らないといけません。
なので、毎日毎日頑張って・・・・・・のはずが。「風が強い」「今日はおなかいっぱい」「家を片付けないと」などなど理由をつけだんだん走らなくなり。
走らなくなった決定打は「家の周りは坂が多すぎて必要以上につらい」でした。つらい練習はいい結果を生むのはわかってるのですが、とにかくつらい。
平地ならもっと楽しく走れるのに。
往復で3キロのコースも見つけて走ったのですが、そのコースが最後に鬼のような坂道、上り坂。もう、体も心もぼろぼろで練習をしなくなりました。

でもね、さすがに出ないって言うことは私のメンツにかけてもできなくって、本当に直前に少し走りこみ、どうにか1キロ7分をきるかきらないか。そんなところまで行きました。

さて、そんな調整不十分のまま迎えたマラソン当日。
20分切れればいいと思い、臨みました。
去年は招集に失敗して後ろからのスタートだったので、今回は前のほうに並び。それでも、どんどん人が前から入ってくる~って感じで、ずいぶん後ろのほうになってしまいましたが、まあまあのスタート。
そしてスタートダッシュで、300メートルくらいで力尽き、そこからはのろのろと。目の前を走るおじいさん(絶対に75歳以上!!後期高齢者!!)を抜くに抜けず。ついていくだけで精一杯。
よっぽどよろよろだったのか、見ず知らずのランナーに「ファイトォォ」と言われ。
頑張りました。
結果、
18分台後半。どうにか120位以内にはいりましたぁぁ!!

終わってから娘に「ちゃんと練習すれば、後1分は伸びたよ」と辛口コメント。
と、言うことで3月の和光市ロードレースにも出ることを決定。このロードレースは3キロの制限時間が20分以内ということで。頑張らないと、ゴールもできない。

さて、娘ですがタイムはまだまだベストではありませんが、念願の入賞。しかし、残念ながら表彰台は惜しいところで逃してしまったのでまた次回。
あ、次回は受験真っ最中だから出られないかな。

と、言うことでまた練習再開です。のはずが10日たっても1メートルも走ってない私。いかんなぁ。
今度こそ頑張ります。
そして、そのうち3キロと言わず5キロ、できればハーフくらい走りたいな、なんてね。

(今回2人で参加だったので、貴重品はバス代以外何も持たずに行ったので写真の1枚もありませんでした)

父退院当日

2017-12-08 11:02:49 | 
父の退院が決まり、私も退院に向けて準備。
ってまずは3キロのマラソン大会を終わらせないことには退院できない(って訳ではないけどね)ので、頑張って練習して、走りこんで(直前だけ)日曜日を迎えました。
ま、マラソン大会については後日UPするとして。

父を迎えに行く前に実家に寄って、お昼ごはんを済ませました。
実家は既に介護用のベッドも搬入され、今まで1階の寝室に設置されていたポータブルトイレもベッドの横に。
酸素の機械も電源を入れればすぐに使えるように、消耗品等も交換されスタンバイOK
あとは父を迎えにいくだけだ。

1時過ぎに病院に到着し、ナースステーションで色々と手続きをして、病室に父を迎えにいきました。
すっかり着替えも終了して、いつもの父がちんまりとベッドに腰掛けてました。
また痩せたなぁ。体重は40キロだそうです。2年前の最初の入院のときに55キロありましたからね。どれだけ小さくなったかが分かります。
ベッド周りの荷物を片付け、ご挨拶をして、途中合流した姉と一緒に車椅子で駐車場まで向かいます。
看護師さんからは「ちゃんと家でお正月迎えるのよ~」「あんまりわがまま言っちゃだめよ~」(的を射てるなぁ)などど送り出され無事退院しました。

家に戻ってからは、まず門から玄関までが酸素を引きずって歩くには石がいっぱいで大変。姉が酸素のボンベを持ってあげようとすると「自分でっ!!」と3歳児のようなことを言う父。
玄関に着くまでに息が上がってふらふらの父。
玄関に母が椅子を用意してくれていたので、そこで休み。更に関門の階段!!ま、一応リタイアしてから建てた家なのでてすりとかはついているけど。まあ、きついでしょう。
ひーひーしながら休み休み2階に到着。今までは体力は落ちていたものの、毎日階段の上り下りはしていたからね~。それを考えるとやはり1ヶ月の入院でかなり体力が落ちてしまったのは否めない事実でした。

そして、2階にたどり着き、まずはベッドで一休み。今まで病院では4人部屋の廊下側だった父ですから。自宅のリビング横で日の光が気持ちよく差し込むベッドで気持ちよさそうに休んでました。
「こりゃあいいなぁ。最高だ!!」と喜ぶ父。頑張った母もうれしかったと思います。
久しぶりに動いたのでそこからはちょっと寝たり、ベッドで新聞読んだり。自宅生活を満喫してました。

そして夕飯は念願の寿司!!それも大トロ!!娘と私で買ってきましたよ。まぁ、寿司を目の前にしてうれしそうな父の顔!!大トロだの中トロだのイクラだの。今日ばかりは他の人のこと考えないでいいから好きなだけ食べな!!と母に言われ、びっくりするほど食べてました。美味しい美味しいと寿司を食べる父の姿を見ることができて本当によかったなぁと思いました。

いつもは寡黙であまり多くを語らない父ですが、この日ばかりは母に感謝の言葉を伝えてました。
1ヶ月の入院中、ほとんど1日おきに病院に通った母。いくらバス1本で行けるとは言え、自宅からバス停まで10分くらいの道のりですし、バスは1時間に1本。逃すと大変です。そして父の洗濯物やら好物のスジコや梅干や母が作った煮物などをリュックに詰め込み病院に行き。そして父の汚れ物やら食べ終わったおかずたちの入れ物などを持ってまた1時間に1本のバスで帰ります。病院にいる間も、体を拭いてあげたり、父の散歩に付き合ったり、父のわがままを聞いたり。などなど。来年で80歳になるそれも若い頃の病気で片目が見えない母がやるには本当に大変だったと思います。父も涙ながらに母への感謝の気持ちを伝えてました。
うんうん、いいね。夫婦って。いつまでも仲良く暮らしてもらいたいなって思いました。

食後はまたベッドでゆっくりとくつろぐ父。ベッドの横にはムーディなライトがあったりとか、どこの高級ホテルですか?って感じの仕上がりに父も大満足。
幸せそうにくつろいでいました。

私と娘も父の幸せそうな姿を見届けてから帰宅です。朝からマラソンで疲れ果てていたけど、それ以上の収穫があった長ーい1日でした。

父やっと退院決定

2017-12-06 15:36:51 | 
10月の終わりから入院していた実家の父ですが。
やっと12月3日の日曜日に退院しました。
本当にやっと、と言う感じです。

今回は10月の終わりに肺炎を発症してしてまい、高熱のため緊急入院。
途中また結核菌騒動などもあり、個室生活が長く経済的に厳しかったのですが。
どうにか大部屋に移り、抗生剤の点滴も続け、11月中旬にはそろそろ退院と言う感じになってきました。
11月中旬の時点で肺炎菌の値が下がらなかった(炎症反応がまだあった)けれども、それ以降も下がることなく、結論としてもうこれは下がらないと。
下がらないけれど、熱もないし、他の部分はよくなっているので退院しようと言うことになりました。

退院後は今までどおり、市の医療センターまで通院することも難しくなるため、在宅医にお願いすることとなり、それに伴いケアマネさんや訪問看護師、在宅医、主治医で一度打合せをしないとだめだと言うことになりました。日程の調整に時間がかかってしまって退院はできるけれどなかなか退院できない状態が1週間程度続き。
11月29日に退院に向けた打合せがもたれることになりました。母だけ出席の予定でしたが、色々と決めないといけないことも多く、私も一緒に出席することに。

1ヶ月間の入院で、すっかり足腰が弱ってしまった父なので、家での生活をどうするのかが問題となりました。
生活スペースは2階(リビングダイニング)休息スペースは1階(寝室と風呂)なのですが、今の父の脚力では毎日階段の上り下りは難しいと言う判断となり。
2階のリビングの隣の小さな和室に介護ベッドを入れることにして、しばらくはお風呂は我慢。体を拭くことで対応し、体力を戻すことになりました。
介護ベッドは介護保険でレンタルすることになり(父は介護度1なので本来は借りられないのですが、ケアマネさんが申立書を書いてくれることになり、対応できることになりました。)翌日には家にベッドを運び入れることが決まり。

あとは月2回の訪問診療と週3回の訪問看護。今後何らかの形で必要であればヘルパーを入れて。
あとは介護認定の見直しをして、介護度を上げるなどなど。

色々なことが決まりました。

退院日は本当は12月1日にしてもらえば、そのまま私が泊まれていいかなと思ったのですが、週末の退院は容態が急変したときに対応に困ることや、週の頭に退院すれば翌日から訪問診療の医師が来ることが出来、その後の診療もスムーズになることなどから、日曜日に退院、日曜の夜は姉が泊まり、月曜日に訪問診療と訪問看護を始めるということで話がまとまりました。
ちょうどと言うか、なんというか。日曜日はもともとマラソン大会で実家に行く予定だったので、退院はマラソン大会が終わってから午後からということになりました。

ずっと退院を心待ちにしていた父にはもう少しの辛抱だと伝え、打合せが終了してからまた横浜までとんぼ返りで仕事に戻るのでした。
でも、ちょっと無理してでも参加してよかったなぁという感じでした。

浪人生息子11月の記録

2017-12-06 15:36:40 | 息子
早いものです、11月も終わってしまいました。
センター試験まであと38日だそうです。どうしましょう。

さて、浪人生ですがそろそろ受験校を決めないといけません。
受験校もセンター利用で、何校か。それも挑戦校と実力相応校、安全校でいくつかずつ。
それも可能であれば、それぞれでセンター試験の配点が違うところをいくつか見積もります。
あとは、経済的なところでいつまで手続きを待ってくれるかとか。
いろんなことを調べないといけません。もちろん本人がやるのですが、我が家は現役のときはもちろん色々と考えて受験したつもりですが、ここまできちんとやってなかったかなぁと思ったりします。

あとは一般受験の受験校もある程度決めないとです。
もちろんセンター試験の結果を見てからの出願となりますが、これもやはり挑戦校・実力相応校・安全校を見積もり、更に日程のかぶらない、更に激しく連続受験にならないように、などなどと考えるとどんどん絞られていきます。

これで大体の志望校を決めて、予備校の担任と三者面談です。
予備校の担任と言っても、別に授業をしてくれる先生ではなく、あくまでも予備校生の学校生活を支える人って感じです。
なので、「君はこの間この科目をよく理解したからここを受けろ!!」とかではなく、今までの模試の成績を見ながらの判断しかできません。でも、それでもよく見てくれているなぁというのが率直な感想です。
そして、息子の志望校を見ながら色々と確認していきます。どこの大学の何学部が第一志望なのか。他に受ける大学にどのようなこだわりがあるのか、などなど。
やはり、色々とアドバイスがあります。そのアドバイスを聞きながら、一つ一つ確認をして変更したり、そのままにしたり。
1時間近くの面談で色々と確認事項や決定事項もあり。さて、家に持ち帰って私も色々と調べないといけません。
息子は今日はこの面談を元に調査書の必要数を確認し、高校に調査書を取りに行っています。
現役生のときは無料で必要なだけ出してくれた調査書も浪人生には有料です。息子の高校は1通500円。
足りなくなることの無いように確認し、予備校が一緒の部活の友達と待ち合わせをして行ったようです。
先生に会えたかな。会えなくてもきっと懐かしい高校に出向き、またやる気が沸いてきたらいいな。

あ、しまった。調査書を取りに行くのは12月の記録だったわ。

と、言うわけで浪人生。そろそろ仕上げに入ってます。
センターの過去問も始めたり、妹が塾の紹介制度で友達を紹介して赤本をゲットして息子にプレゼントしたり。
私は予備校に着て行く洋服をいくつか新調してあげて、これで受験まで乗り切れるようにしたり。

インフルエンザの予防接種も家族全員済ませたし。マスクもたくさん買ったし、マスク用の除菌スプレーも買いました。
お弁当も相変わらずせっせと作っているし、普段どおりの生活を心がけています。

さて、あと少し。頑張って乗り切ろう!!