死別シングル奮闘記

夫の死を乗り越えて2人の子供と頑張って生きる母の日記です

今年一年

2006-12-31 19:48:24 | ひびのくらし

今日で2006年も終わり。早かったなぁと思います。

今年振り返ってみてどんな年だったんだろう。日々の暮らしも随分落ち着き3人での生活も悪くないと思った1年だったなぁ。子供達ともよく旅行にも行った。のんべの思い出を辿る旅とか。子供達も大きくなったのでいろいろとできることも多くなったし一緒に楽しめるようになった。その反面、自分ひとりで子供を育てていることのプレッシャーがとても大きく子供の父親が必要なのではないかと思うこともあった。でも父親になってくれそうな人は今はいないし、まだのんべを思い続けている私には無理だなぁと思ったりもして。そんな一年でした。心はいろいろと揺れ動くこともありましたが、子供達と平和に過ごせた一年だったと思います。

来年はまずは私の甲状腺の検査の結果次第で一年が大きく変わるのかな。何事もなければ次は娘の卒園・入学。保育園が終わればまた仕事も少し頑張れるかなぁと思ったりしてます。健康に何事もなく来年は過ごせるようになればいいなと思います。

またこのブログに来てくださってる方や励ましてくれる方の存在も大きく、サボりがちな更新ですが頑張って来年はもっと明るいことを書けたらいいなぁと思ってます。

また来年もよろしくお願いします。

 


私のこと

2006-12-28 23:46:06 | じぶんのこと

のんべを見送って早4年半。家族3人の暮らしにも随分慣れてきた。

ふと自分まで病気になって倒れたりしたら大変だなぁと思っていた矢先、甲状腺に腫瘍が見つかった。随分前から甲状腺の腫れは気になっていたのだがまさか腫瘍があるとは。そして悪性の疑いが少しあるとのことで先日組織をとって検査した。結果は年明け。

よりによって私に癌の疑いとは。一応調べたところ甲状腺の癌は一般的におとなしく急激に悪くなったりする事はあまりないらしい。しかし、子供達のことを考えてみるとお父さんががんで亡くなり、お母さんまでがんになんかなったらあまりに可哀相だ。

のんべのことがあって癌のことや病院の選び方、それこそホスピスの選び方などもいろいろと勉強した。だからがんは怖くない。でもでもやっぱり自分にそんな運命が降りかからなくてもいいのに、どうして私なんだろうと思った。すこしのんべの気持ちも分かった気もした。

ま、検査の結果良性でしばらくは経過観察だったって笑えることになってほしいなぁと思ってはいますが。


仕事をどうするか?

2006-12-22 21:44:39 | おしごと

のんべがいなくなって困ったのは仕事をどうするかだった。

上の息子が生まれるまでは事務の仕事をしていたのだが、退職して早4年?のんべがいなくなったのを機に仕事を探すことにした。生活のためもあったが、子供とずっと家にいて、近所の人たちとお付き合いを今までと変わらずにやっていく自信がなかったし、やはりこのタイミングで外に出ないと自分が変われないような気がした。

のんべが亡くなる前にのんべと一緒に会社に行った時に、会社の人が言ってくれた、「奥さんも仲間だから何かあったらいつでも頼りにしてください」と言う言葉を鵜呑みにしてのんべの会社の人のところにお願いしに行った。「私を雇ってください」と。その人は人事担当だと聞いていたので人事部の人だと思ったらそうではなかったが、人事部長に頼んでくれるとのことだった。もちろん正社員は無理だからパートでいいのでお願いした。人事部長もOKを出してくれてのんべが亡くなってわずか半年後には私はのんべの会社の人事部でパートで働くことになった。あの時の「仲間だから」の言葉を信じてお願いしてよかった。仲間だからと言ってくれた人事担当の人は今は私の上司です。4年前も今もお世話になってます。本当に人の縁とはどこでどうつながっているのかわからないです。


のんべのこと9 のんべとのお別れ

2006-12-13 21:47:44 | のんべ

のんべが旅立ってからの記憶はあまりない。医師が死亡確認をしてからのんべの体を拭いてあげた。本当に眠っているだけのようで死んでいるとは思えなかった。「痛いなぁ~」とか言って起きあがりそうだった。でものんべは動かなかった。体の位置を変えるときに看護婦さんが「のんべさん、体向き変えますよ」と声を掛けながらやってくれたのが嬉しかった。亡くなってものんべはモノではなく人なのだ。そして1番お気に入りのシャツとズボンを着させた。本当に眠っているようだった。そして気がついたら葬儀屋が決まっていた。気がついたら迎えの車がホスピスに来ていた。そして家に戻った。

家に戻ってからは葬儀屋との打ち合わせ。ばたばたしているうちに会社の人も来てくれた。同期の悪がき4人組の3人が来てくれた。この間までのんべ達4人で悪ふざけをしていた仲間だったのに、のんべだけが旅立ってしまった。みんな言葉もなかった。通夜・告別式のことなどいろんなことが決まっていった。その晩のんべの隣に布団を敷いて寝た。のんべはすっかり冷たくなってしまっていた。涙が止まらなかった。

通夜には会社の人や友人など本当に多くの人が来てくれた。告別式も土曜日だったので大勢の人が来てくれて焼香時間が足りなくなるくらいだった。喪主の挨拶も義父がやってくれると言ったが、私がやった。のんべのお礼を私が自分の言葉できちんと伝えたかった。のんべが生前「葬式の時用にオレの声でも録音しておく?」なんて言っていたのを思い出した。息子が挨拶をしている私に「おかあさん、頑張って」と声を掛けてくれた。それが大勢の人の涙を誘った。最後のお別れのとき娘は何をしているのか分からないかのように「とーさん?とーさん?」と棺の中ののんべに向かって話し掛けていた。花に埋もれて微笑むのんべはとても穏やかな顔をしていた。最後にやさしい顔をしたのんべを見られてよかった。

のんべの好きなenyaをBGMで流した。今でもそのCDを聞くとそのときのことを思い出す。

のんべの話はこれでおしまい。これからはのんべがいなくなった後の生活や日々の暮らしを残していきます。


のんべのこと8 旅立ちの日まで

2006-12-10 07:38:27 | のんべ

のんべがホスピスに戻った翌日からは3連休だった。友人がいっぱい来てくれた。ホスピスの談話室でみんなでお話をした。会社の友人・学生時代の友人・親戚の人など大勢がのんべに会いに来てくれた。のんべはもう体調も悪く、人に会える状態ではなかったが、休み休みみんなに会って話をした。会社の人が明後日の会議の相談にも来た。のんべの晴れ舞台となる予定の会議だった。どんなに具合が悪くてものんべはその会議に行くと会社の人に約束していた。

3連休の最終日の夜にホスピスから家に帰る私にのんべが言った。「たまには家に帰る前にゆっくりと外でごはんでも食べたら?疲れたでしょう?」と。その言葉に甘えて私はファミレスでごはんを食べて帰った。翌日にはのんべの容態が悪化するのでゆっくりとした時間はその時が最後になった。自分の体の具合を分かって私にそんなことを言ってくれたのか、今となっては分からない。

翌日朝からホスピスに行ったのんべの母がのんべの容態が悪いのですぐにくるようにと連絡してきた。今までモルヒネでコントロールできていた痛みがもうコントロールできないほどひどくなっていた。私とのんべの母、子供達はそのときに備えて一旦家に帰り泊り込みの準備をした。その時に病院から連絡が入り、血圧低下・意識混濁のためすぐに病院に戻るように言われた。病院に戻ると電話の時よりは状態が落ち着いたのんべがいた。医師からは一両日中でしょうと伝えられた。夜は母と交代で付き添った。

翌日は会社の会議の日だった。意識もはっきりしないのんべは今日は何日かとしきりに聞いた。今日が会議の日だと聞いたらきっとのんべは這ってでも行くだろうと思い家族は会議の日だとは伝えなかった。伝えられなかった。子供達はそんなのんべを見守った。下の1歳の娘は苦しむ父親に何かしてあげようと自分のおやつをあげた。4歳の息子はじっとそんな父親を見つめた。義理の弟が「子供達のことは任せてください」とのんべに告げたときのんべは体を起してお願いしますと伝えようとした。その時に嘔吐し起き上がれなくなった。自分の命を張ってでも子供達のことを頼もうとしたのんべ。

その後は意識もはっきりせず、声も出ない様子だが何かをのんべは言い続けた。口の動きを読もうとしたが分からなかった。のんべは薄れ行く意識の中で何を私達に伝えようとしたのだろうか。そして熱が40度まで上がり、もう口を動かすこともなくなった。日にちが変わって朝4時40分、たんが絡んだような咳をして看護士にたんの吸引を頼もうとしたそのとき、のんべの呼吸は止まっていた。最後の最後は苦しむことなく旅立った。休憩室で眠る息子をすぐ連れてきてお父さんにありがとうって言うように伝えた。聴覚が最後まで働くということを聞いていたのでもしかしたら呼吸が止まっても息子の声がのんべに届くと思ったからだ。のんべに届いたのだろうか。息子の言葉は。