のんべがホスピスに戻った翌日からは3連休だった。友人がいっぱい来てくれた。ホスピスの談話室でみんなでお話をした。会社の友人・学生時代の友人・親戚の人など大勢がのんべに会いに来てくれた。のんべはもう体調も悪く、人に会える状態ではなかったが、休み休みみんなに会って話をした。会社の人が明後日の会議の相談にも来た。のんべの晴れ舞台となる予定の会議だった。どんなに具合が悪くてものんべはその会議に行くと会社の人に約束していた。
3連休の最終日の夜にホスピスから家に帰る私にのんべが言った。「たまには家に帰る前にゆっくりと外でごはんでも食べたら?疲れたでしょう?」と。その言葉に甘えて私はファミレスでごはんを食べて帰った。翌日にはのんべの容態が悪化するのでゆっくりとした時間はその時が最後になった。自分の体の具合を分かって私にそんなことを言ってくれたのか、今となっては分からない。
翌日朝からホスピスに行ったのんべの母がのんべの容態が悪いのですぐにくるようにと連絡してきた。今までモルヒネでコントロールできていた痛みがもうコントロールできないほどひどくなっていた。私とのんべの母、子供達はそのときに備えて一旦家に帰り泊り込みの準備をした。その時に病院から連絡が入り、血圧低下・意識混濁のためすぐに病院に戻るように言われた。病院に戻ると電話の時よりは状態が落ち着いたのんべがいた。医師からは一両日中でしょうと伝えられた。夜は母と交代で付き添った。
翌日は会社の会議の日だった。意識もはっきりしないのんべは今日は何日かとしきりに聞いた。今日が会議の日だと聞いたらきっとのんべは這ってでも行くだろうと思い家族は会議の日だとは伝えなかった。伝えられなかった。子供達はそんなのんべを見守った。下の1歳の娘は苦しむ父親に何かしてあげようと自分のおやつをあげた。4歳の息子はじっとそんな父親を見つめた。義理の弟が「子供達のことは任せてください」とのんべに告げたときのんべは体を起してお願いしますと伝えようとした。その時に嘔吐し起き上がれなくなった。自分の命を張ってでも子供達のことを頼もうとしたのんべ。
その後は意識もはっきりせず、声も出ない様子だが何かをのんべは言い続けた。口の動きを読もうとしたが分からなかった。のんべは薄れ行く意識の中で何を私達に伝えようとしたのだろうか。そして熱が40度まで上がり、もう口を動かすこともなくなった。日にちが変わって朝4時40分、たんが絡んだような咳をして看護士にたんの吸引を頼もうとしたそのとき、のんべの呼吸は止まっていた。最後の最後は苦しむことなく旅立った。休憩室で眠る息子をすぐ連れてきてお父さんにありがとうって言うように伝えた。聴覚が最後まで働くということを聞いていたのでもしかしたら呼吸が止まっても息子の声がのんべに届くと思ったからだ。のんべに届いたのだろうか。息子の言葉は。