寺嫁な日々

嫁・妻・母・坊守として日々感じた事、大きな声じゃ言えない本音の所・・・お話しします

第30回大経の会のお知らせ

2015-05-20 14:03:54 | Weblog

第30回「大経の会

以下のようにご案内申し上げます。今回より「阿弥陀経」を学びます
繰り合わせてご参加ください

日  時  6月4日(木)10時~15時
テキスト 「浄土三部経(下)」岩波文庫

前回は、大経の中で学んだ行信一念や三不信を手がかりに、浄土真宗の信心とはどういうものか?ということを再確認しました。
浄土教の要は、第18願にある。至心に信楽し浄土を欲生して十念すれば、必ず浄土に生まれ、悟り得る事ができるというもの。簡単なようだが、しかし、至心信楽欲生心を、私の作り出した心の有り様の問題として捉えると、そうあることは実はとても難しい。浄土に生まれる手立てがなくなってしまう。ではどういう『念』があれば救われるのか?善導大師は、心の有りようを問題にせず、十念の『念』はただ南無阿弥陀仏を称えることだと主張した。その教えは法然、親鸞へと受け継がれる。「お念仏一つなんですよ」というの勧めに会い、それに応えてお念仏を称える(行の一念)。と同時に信心歓喜する心が起こる(信の一念)。『念』は救いの絶対条件であり、歓喜の心はその『証』。歓喜する心の程度や有りようもまた、問題ではない。自分の中に生まれた心ではあるが、歓喜するのは、仏様の信心(18願でいう、至心・信行・欲生という仏の心)が私の中で成就した心である。親鸞聖人は人間の心と如来の心を分けようとした。私達が信仰の拠り所にしようとするところの、信じるとか、ありがたく思えるとかそういう宗教心らしきものも、全部三不信として、仏の三信(淳心・一心・相続心)と区別された。また、信じられなくても、ありがたくなくても良い、そういう心の有り様に振り回されること無く、ただ今していること=称名念仏にだけ集中する。これは、優れた『実践と教えの融合』であるといえよう。  (講義より)


在家仏教の厳しさ!?

2015-05-20 11:07:46 | Weblog

昨日の坊守学習会で
藤代聰磨先生法語集の中の言葉が引用された

その言葉が何故引き合いに出されたのかは
よく覚えてない
見開き反対側のページの言葉が衝撃的だったので・・・(^_^;)

 

『酒は30分でやめるように」

一昨日の飲み方を諌めるような、まさにタイムリーな内容だったので
特に心に響いてきたんだろうか

 

全部打ち捨ててしまうのは
手放してしまうまではとても厳しいけど
一旦、完全に捨ててしまって
周りからもそういうものを排除してした環境に身を投じちゃえば
中途半端に自己制御するよりは楽なんじゃないかな?って思ったりする
『酒は一切やりません」って山に篭もるとかね
現実的な事で言うと「アル中病棟」とかさ
ま、やったこと無いからわかんないけど

 

酒でも、薬でも、何でも
中毒性のあるもの、楽なもの、絶えず煩悩を刺激する状態に放り込まれ
「ちょっとだけ」やっちゃって
それを自己制御するってのはほんとに大変!

 

在家仏教ってのは
常にそういう場所に身を据えてるってことだ
煩悩に振り回され
後悔、内省、自己と向き合い
南無阿弥陀仏で何が救われるのだ
なんで念佛なのだと
問い尋ねながら

生きてくんだよなぁ~

 

あ、藤代先生の言葉の深い意図はわかってません
あしからず・・・(^_^;)