人を見ていて、
自分が指揮者として未熟だと思う点があります。
迷ったり、言い直すことです。
これらを全て否定するものではなく、
もちろん、歌い手を、合唱を共に創る相手と考えれば、
いろいろな試行錯誤の方向は、
練習で生まれてくると思います。
しかし、根本的に、
歌い手に心配されるような「迷い」は持っちゃいけませんね。
「絶対的な存在に」とは思いませんが、
ここを逃げに使ってはいけないと、最近思っています。
迷いを少しでも打ち消すために、勉強しないといけません。
よく、団員から、
歌うのは歌い手だから、
「指揮者が悪い」と自分で言うのは、良くないと、
これまで何度か言われてきました。
しかし、これは、偽らざる本音です。
指揮者が悪ければ、たいていの合唱団のサウンドは悪くなります。
多くの指揮者は、他の合唱団の音を聴いて、
「俺ならこうする」
「指揮者が悪いからよくない」
そう思います。
実際、指揮者が代われば解決しそうなことはたくさんあります。
断っておくと、
僕は、歌い手でもあるので、
指揮者ののアクションがないと何もしない、
変わらないというのは、歌い手の怠慢だと思っています。
僕は、以前から、
「合唱団員はイチローたれ」
と言っています。
イチローは、人に言われなくてもやるべきことをします。
イチローは、残念ながらチームメイトに恵まれていません。
ここ数年最下位です。
でも、
「チームが不調の時こそ個人を考えるべき」
イチローはそう言っています。
全員がイチローなら、今自分が何をすべきかが分かる。
イチローの言うことは、そういうことです。
それらの総和が、チームなのです。
合唱団も同じですね。
話が大きくそれましたね(笑)。
僕は、指揮者として、迷いが多すぎますね。
迷いを超えたところに、在るべき姿がある、
そこに辿り着くまで、しっかり勉強し続けないといけません。
自分って未熟だなあと、感じない人っていないと思うよ。でも、未熟さを感じていても、練習しているときは口には出さないで欲しいかな。
すべて背負うことに何か違和感があるのです。歌い手としては、寂しい感じ。両方悪いんです。俺が未熟なばかりに…という指揮者は傲慢です。
指揮者は指揮者として、歌い手は歌い手個人として、勉強すべきことがあります。
団員として、という見地だと目指すところはひとつですよね。(そこが一人ひとりブレている場合は別ですが)
自分がどうありたいか、と、団がどうありたいかは別な気がします。
例えば指揮者のひとことで演奏が変わることがある。
そのひとことを言える指揮者でありたい。そのひとことに反応できる歌い手でありたい。
相手に向けることと自分に向けることがある。自分に向けることは、相手によって知ることが多いけれど、相手を前にして、自分に向かうのはやはり、寂しい。
うまく言えませんが。
共有する感覚を大事にしたいです。
ぜひ見て頂きたいです。そして辛口コメントを(笑)。
そんなに厳しくないですよ(笑)。でも、せっかく歌うのなら良い音楽をしたいですね。音楽で良い思いをして欲しいと思っています。現実は厳しいですが。。。
>roofsさん
そうですね、自分で書いておいて、傲慢かなと今思っています(笑)。
ただ、指揮者としては、決まった練習回数の中で、歌い手の能力を最大限に引き出せたか、それに尽きると思います。能力やポテンシャルがあるのに、それが引き出せないと、自分の指揮者としての未熟さを感じます。
でも、「相手に向けることと自分に向けること」は、なるほどと思います。自己反省は自己反省とし、団員と共有する部分を大事にしないとなと思います。
強気なコメントに真摯な返答をありがとうございます。
時間は限られていて、本番はやってくる。
いろいろ試して実践して感じて決めることができないことも、多いですね。
歌い手としては、受身、待ちの姿勢から脱して、アンテナを張りつついろいろやってみる。パート間でも伝えて共有すると、楽しくなりそう。
今後の練習に活かします。
全ては、音楽のためにあるというか、
音楽が良くなるために、各自が何をすべきかを考えることなんでしょうね。指揮者として、歌い手として、為すべき事をする。指揮者としての役割、歌い手としての役割、どちらが欠けても音楽は成り立たないですからね。