実家に帰ります。
今もう16時半過ぎてますが(苦笑)
お世話になりました。今年も。
皆様良いお年を。
ありがとうございました。
ずっと書いてませんでしたが、
10月末土曜日、府中の森芸術劇場にて
全日本合唱コンクール全国大会高等学校の部を
聴いてきました。
聴いたということは書いた気がしますが、
中身ですね。
高校の部は初めて聴いたんですね、実は。
正直なことを言うと、あまり興味が持てなくて。。。
聴きに行く前は、
「もし今まで避けていて、聴きに行ってみたら
度肝を抜かれた、なんてなんか嫌だな。。。」
とか思っていたんですが、、、
ABの部、両方を聴いて、
思ったより楽しめたんですが、
感動、ということはなかった、という感じ。
高校生の女声合唱とか、
その精緻さとかに度肝を抜かれ、
ということはありませんでした。
聴きながら、
また帰りながら色々考えていたんですが、
何となく自分なりの結論は出ました。
まず、選曲。
本当に鈴木輝昭氏の作品が多くて、
他にも西村朗とか、邦人はそういう感じ。
これ、別に各校がそれぞれ選んだ結果なので、
またそういう学校が全国に来たので、
そういうことなんですが、、、
好みとかの話ではなく、
そういう傾向になるというのが
何となく分かった気がしました。
それは、僕が高校生の演奏に
それほど興味が持てなかったこととも
関係してきます。
理由は単純に、
みんな高校生だから、
ということです。
当たり前なんですが、
学校によって高校生の
色々な意味での個体差があるわけではない、
わけですね。
平たく言ってしまえば、素材は皆同じ、ということ。
で、もちろん身体力、精神力などの成熟さは
あまり変わらない。
そうなってくると、
乱暴な言い方をしてしまえば、
コンクールで勝つためには、
つまり「差」をつけるためには、
技術を磨いて、難易度の高い作品を
演奏しこなす、という方向に
自然と向いていってしまう、
ということなのだなと思います。
だから選曲も偏る。
もちろん、
鈴木輝昭作品と向き合う時に、
先生(指揮者)も生徒も色々な角度から向き合っている
はずだと思います。その結果の凄い演奏なわけです。
でも、大きく見た(聴いた)時に、
上記のような理由から、
学校と学校の差というのが非常に見えにくい、
言い換えると、「技術」という部分以外での差が
非常に見えにくい、という現象になる、
そういう意味で考えると、
僕が一般の合唱団に関わっていて、
例えばどこかの高校や大学の合唱団の
OBOGしかいない一般団体の音、よりも、
いろいろな経験値が交じっている
一般の団体が奏でる音が好きだ、
という理由も明確に分かりました。
同じコンクールで言えば、
一般の部の方が、選曲やサウンドや技術、表現力など、
団体による個性が明確に出やすく、
でも高校生が別に没個性ということでなく、
個体差、経験値など前述の理由で、
どうしても演奏に「差」がつきにくいのだな、
というのが結論です。
だからというわけじゃないですが、
同じ高校生の演奏でも、
職業指揮者である雨森先生が振った団体の演奏が、
色々な意味で他の団体と違う、ということで
際立って聴こえたり
(他にも職業指揮者が振った団体があるのかもですが)、
一番最後の出場団体、福島の会津高校の
ラインベルガーのミサの演奏が、
僕がこの曲を好きだということもありますが、
選曲がロマン派の合唱作品、しかも二重合唱ということで、
コンクールを通じて最も心に残った演奏だったり、
そういう学校の演奏が、
賞の上下という意味ではない「際立ち方」をして
聴こえた、という結果になりました。
あくまで僕にとって、ですけど。
そういう意味で、
高校生だからこそ、
また一般も含めて、
やはりコンクールの抜本改革をすべきだった、
というのがこの文章の結論です。
平成25年度からの改革は、
いろいろ議論したんでしょうけど、
どうしても合唱の本質的な部分を避けている
という感じがしています。
合唱に限らず、どのジャンルもそうなっていますが、
いわゆる日本の甲子園方式のコンクール、
少年ジャンプで言うところの
「すべて取っ払って誰が一番か決めよう」
的な大会の方向(笑)に向かっていってしまう状況、
ということですね。
まあ、参加している立場ですから、自分自身も
コンクールという場が少ない曲をみっちり練習して
深く掘り下げていく中で、
得られる技術や演奏経験、
そういうものを演奏会とかでの他の作品の演奏に生かしていく、
また結果による指揮者や団体の知名度向上、
という側面を利用している一人でもあるので、
また連盟にもかかわっているので
現状何とも言えないんですが、
やはり宝塚のような時代様式によるカテゴリー分け、
また15分程度のプログラミング、
など、そういう方面から改革するのが
本筋なんだと思うんですね。
少なくとも「合唱」を中心に考えれば。
だから、
現状のコンクールで何かできることを
そこでは利用しつつも、
最終的には、そこに囚われ過ぎないような場での
演奏体験などをいろいろな枠組みで模索していく、
というのが僕の方向になっていっています。
アンコンに対する
アンサンブルフェスティバルの開催という方向とか。
既に、現にコンクールを離れた、また参加していても
幾人かの指揮者の方々が
各地でそういうイベントを開催しています。
そういう意味では、
前述の甲子園方式というのは、
いわゆる合唱連盟の黎明期というか、
本当に日本の国の発展と一緒で、
ある程度中央集権的に組織を作って、
そこから下へ広げていくというのが
効率良く平らに発展するための方法だった、
と思うわけですが、
今起こっている状況というのは、
国で言えば地方分権の方向、
合唱においてもまさにそういう時期に来ていて、
だからこそ各地でそういうオリジナリティーを出したイベントを
開催していく方向性が出てきているわけですね。
でも国(合唱連盟)としては
これまでやってきた方向を大きく変えてしまうということは、
言ってしまえば既得権益の破壊になってしまい、
連盟の運営上好ましくないことになる、
という考えが、
抜本的な改革を妨げている、ということなのだと思います。
結果、連盟の組織の内部にいて、
連盟という枠組みの中で
何かを大きく変えるということが困難なので、
皆それぞれで連盟と別のところでそういう活動を行っている、
というのが現在の状況だと思います。
これ、
スポーツみたいに勝ち負け自体が重要な
「本来的に競技性を持つ」ものなら
甲子園方式でも良いんですが、
合唱とかはちょっと違いますよね。
コンクールという枠組み以外での
演奏の機会の増加や、
そこに充てている時間を、
本当ならもっと色々な時代の作品に
触れる時間に充ててほしい、
というのがやっぱり僕の願いですね。
現場にいないからそういうことを言えるんでしょうけど。
もちろん、既にそういうことを並行してやっている学校も
沢山あると思います。
ただ、残念ならが合唱はプロフェッショナルがほとんどないわけで、
そういう意味では、やはり学校を出ても、
一般団体とかの枠組みで歌うことも楽しい、とか、
そうやって死ぬまで歌い続けていってほしい、とか、
今のコンクールというものの枠組みがもたらす
”弊害”というものを指導者がしっかり認識して、
狭い枠組みの中だけで合唱すること、音楽することが
終わってしまわないように向けていくことが
本当に大事なことだと思っていて、
そういうことを再認識したコンクールでもありました。
だからこそ、繰り返しですが、
一番最後の演奏だったということもありますが、
会津高校のラインベルガーの素敵な演奏に、
本当に心温まる気持ちになって帰路についた、
ということも収穫で、
とにかく会津高校の演奏に心から拍手を送りたい、
というかスタンディングオベーションしたいくらいの気持ちで、
激烈な拍手を客席で一人していました。
コンクールだって、そういう空気でもいいと思うんですよね。
年越す前に書いておきたかった件でした。