秋田市に長く住み、地理もそれなりに把握し、近くは何度も通っているのに、初めて足を踏み入れ、ここはこんな風景だったのかと新鮮な気持ちにさせられる場所がまだまだある。その1つ。
ウミネコが集結していた旭川が秋田運河に合流する、新川橋上流。
(再掲)新川橋から上流方向。左が旭川、右が運河
上の写真の左側には、国道7号臨海バイパスがあるわけだが、バイパスと川の間には狭い道が通りけっこう住宅が建っている。
そこへ初めて足を踏み入れてみると、家々は思ったより軒数が多く、古くからあった雰囲気。もともと川尻の集落の外れだった土地が、バイパスによって分断されて残っていることになる。
家がなくて道路際から川を見渡せる場所が数か所あった。
※しっかりした柵等がありますが、それを越えて河川敷へ下りるのは危険なので絶対にやめてください。
初めて見る光景に感動
ここから見えるのは、旭川の最後の最後の地点。
ウミネコの記事の繰り返しだけど、秋田市中心部の浅い旭川と同じ川とは思えない雰囲気。ほとんどは太平川(と猿田川等)の水なわけですが。
上の写真の赤い矢印の下が合流点の内側の突端。所在地としては茨島で、工場かなんかの敷地。
さらに向こう岸の木が並んでいるのは、秋田運河を越えた対岸の勝平市民グラウンド。
水色の2連アーチは、茨島と勝平を結ぶ、秋田運河に架かる水道橋。県管轄の下水道橋かな。【7月1日訂正】いただいたコメントによれば、工業用水道とのこと。
新川橋からも見えるが、やや遠く、斜めに見える。ここからは、より近く、ほぼ真横に見えるのが新鮮。
小さな公園もあった
公園名の標柱はないが、別の標柱に「川尻毘沙門児童遊園地」との小さなラベルが貼ってあった。
その標柱には「渡船場跡」。
1892(明治25)年に初代新川橋が架かる以前は、「芝の渡し」や「新川の渡し」と呼ばれる渡し船が、ここにあったそうだ。
「芝」の由来はなんだろう。「新川」が新川橋の由来になったのだろうが、新川という川はなく(町名にはあるがその由来は不明)、いまいち分からない。
対岸のどこかにも標柱があるのだろうか。
当時はこの秋田運河が雄物川本流であり、雄物川放水路はなかった。秋田市街地側・川尻から来てここを渡れば、もう新屋で、そのまま本荘・酒田方面まで羽州浜街道(酒田街道)を南下できたわけだ。
ちなみに、秋田運河の起点・現在の新屋水門付近には「三七の渡し」という渡しもあり、牛島町の外れ(茨島)と新屋(船場町)を結んでいたそうだ。これは当時の人口や人の流れのせいか、運河の工事が始まってからのほうがにぎわい、運河ができるまで存続していたらしい。
「三七の渡し」は、当時その付近で養蚕する人がいて、「蚕室の渡し」が転じたとのこと(「改定新屋郷土史」昭和45年、日吉神社)。
ところで、埼玉大学教育学部谷謙二研究室が「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(http://ktgis.net/kjmapw/index.html)」を公開している。
県庁所在地を中心に、現在と明治45年の地形図を並べて見ることができる。
新川橋ができて20年経っている時点だが、この付近を見てみると、
「今昔マップ on the web」より抜粋
今の県道【19日訂正・今は市道でした。右側の現在の地形図で黄色い道のこと】や川尻の集落や秋田刑務所は、基本的に今と変わらない。刑務所の解体されてしまった赤レンガの正門は、ちょうど明治45年にできたらしい(刑務所の開所はもっと前らしいが、ネット上に情報がない)。
ただ、刑務所前(北側)の今の県道【19日訂正・市道】は、新川橋開通時に新たに整備された道路かもしれない。羽州浜街道は南側の旭川沿いの道だったようで、明治天皇巡幸の碑(現在の地図に記号がある)はそちらにある。
右の現在の地図の小さな赤茶色の丸が、渡船場跡。
この一帯の道路も現在とほぼ同じようだ。渡し船はなくなっているので、明治45年の地形図上でそれを知らせるものはない。(上記、三七の渡しは現役だったので、表示されている)
対岸の勝平側にも点線の道があるけれど、そこに着いたのか?
改修前の雄物川の線形を見ると、曲がりくねっているというよりも、川幅の変化が激しい(深さは不明)。放水路ができて運河に変わった時には、基本的に川幅が狭くされたようだ。
その中で、この付近は比較的川幅が狭い。現在とほぼ同じ程度。そこを狙って、渡し船や橋ができたのだろうか。
道路との位置関係としては、ここより下流側には当時は家も道もなく、ここより上流側では旭川(または太平川)と雄物川と2本渡らないといけない。合流点直下のここがベストだったのだろう。というかだからこそ、集落ができて、道ができたということか。
ここに渡し船があった頃はどんな光景で、どんな船や人が行き来していたのだろう。今の護岸が固められて工場と家の中の運河では、かなりの想像力を要し、明治20年代以前では写真もなく確かめようもないだろうけど。
ところで「今昔マップ on the web」なかなか楽しい。県庁所在地のみで、明治45年としか比較できず、欲を言えば他の街や他の年代も見てみたいが、一研究室が提供してくれているのがすごい。機会あればまた。
ウミネコが集結していた旭川が秋田運河に合流する、新川橋上流。
(再掲)新川橋から上流方向。左が旭川、右が運河
上の写真の左側には、国道7号臨海バイパスがあるわけだが、バイパスと川の間には狭い道が通りけっこう住宅が建っている。
そこへ初めて足を踏み入れてみると、家々は思ったより軒数が多く、古くからあった雰囲気。もともと川尻の集落の外れだった土地が、バイパスによって分断されて残っていることになる。
家がなくて道路際から川を見渡せる場所が数か所あった。
※しっかりした柵等がありますが、それを越えて河川敷へ下りるのは危険なので絶対にやめてください。
初めて見る光景に感動
ここから見えるのは、旭川の最後の最後の地点。
ウミネコの記事の繰り返しだけど、秋田市中心部の浅い旭川と同じ川とは思えない雰囲気。ほとんどは太平川(と猿田川等)の水なわけですが。
上の写真の赤い矢印の下が合流点の内側の突端。所在地としては茨島で、工場かなんかの敷地。
さらに向こう岸の木が並んでいるのは、秋田運河を越えた対岸の勝平市民グラウンド。
水色の2連アーチは、茨島と勝平を結ぶ、秋田運河に架かる水道橋。
新川橋からも見えるが、やや遠く、斜めに見える。ここからは、より近く、ほぼ真横に見えるのが新鮮。
小さな公園もあった
公園名の標柱はないが、別の標柱に「川尻毘沙門児童遊園地」との小さなラベルが貼ってあった。
その標柱には「渡船場跡」。
1892(明治25)年に初代新川橋が架かる以前は、「芝の渡し」や「新川の渡し」と呼ばれる渡し船が、ここにあったそうだ。
「芝」の由来はなんだろう。「新川」が新川橋の由来になったのだろうが、新川という川はなく(町名にはあるがその由来は不明)、いまいち分からない。
対岸のどこかにも標柱があるのだろうか。
当時はこの秋田運河が雄物川本流であり、雄物川放水路はなかった。秋田市街地側・川尻から来てここを渡れば、もう新屋で、そのまま本荘・酒田方面まで羽州浜街道(酒田街道)を南下できたわけだ。
ちなみに、秋田運河の起点・現在の新屋水門付近には「三七の渡し」という渡しもあり、牛島町の外れ(茨島)と新屋(船場町)を結んでいたそうだ。これは当時の人口や人の流れのせいか、運河の工事が始まってからのほうがにぎわい、運河ができるまで存続していたらしい。
「三七の渡し」は、当時その付近で養蚕する人がいて、「蚕室の渡し」が転じたとのこと(「改定新屋郷土史」昭和45年、日吉神社)。
ところで、埼玉大学教育学部谷謙二研究室が「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(http://ktgis.net/kjmapw/index.html)」を公開している。
県庁所在地を中心に、現在と明治45年の地形図を並べて見ることができる。
新川橋ができて20年経っている時点だが、この付近を見てみると、
「今昔マップ on the web」より抜粋
今の
ただ、刑務所前(北側)の今の
右の現在の地図の小さな赤茶色の丸が、渡船場跡。
この一帯の道路も現在とほぼ同じようだ。渡し船はなくなっているので、明治45年の地形図上でそれを知らせるものはない。(上記、三七の渡しは現役だったので、表示されている)
対岸の勝平側にも点線の道があるけれど、そこに着いたのか?
改修前の雄物川の線形を見ると、曲がりくねっているというよりも、川幅の変化が激しい(深さは不明)。放水路ができて運河に変わった時には、基本的に川幅が狭くされたようだ。
その中で、この付近は比較的川幅が狭い。現在とほぼ同じ程度。そこを狙って、渡し船や橋ができたのだろうか。
道路との位置関係としては、ここより下流側には当時は家も道もなく、ここより上流側では旭川(または太平川)と雄物川と2本渡らないといけない。合流点直下のここがベストだったのだろう。というかだからこそ、集落ができて、道ができたということか。
ここに渡し船があった頃はどんな光景で、どんな船や人が行き来していたのだろう。今の護岸が固められて工場と家の中の運河では、かなりの想像力を要し、明治20年代以前では写真もなく確かめようもないだろうけど。
ところで「今昔マップ on the web」なかなか楽しい。県庁所在地のみで、明治45年としか比較できず、欲を言えば他の街や他の年代も見てみたいが、一研究室が提供してくれているのがすごい。機会あればまた。
かなり前に市道になったようですが。
さらに昔は旧7号。
新興地なイメージがありますから以外です。
7号といえば羽越地区ででかい地震が起きてしまいました。
1年前に指摘されて注意文がはられましたブロック塀が、本荘で倒壊したためますます注意厳しくなりそうです。
ニュースだとずっとやってましたが、AKTの特番の杉アナを見て山形県民は懐かしく思ったのか、否か。
NHKは平日のためすぐ繋がりました。
羽越地区の空白域は秋田(男鹿から南の湾)から新潟(下越地域)迄と言われてますが、今回は南側(JRなら新潟支社管内)の地域が受けました。
秋田支社管内の北側、免れたという安堵より最後までとっておかれた感じが怖い。
今回で刺激されてこないといいのですが。余震の警戒区域でもありますし。
そうなると新川もかなり津波が危ない。
酔っ払った勢いで渡し場について聞かされたような気もするのですが・・。
ちなみに今の川尻小学校場所の東側に満州などから引き揚げ手来た人の共同住宅みたいのがあって独特の雰囲気だったというのは何故か覚えています。
いずれ割山は元々が旧帝国陸軍の大規模な実弾も使った演習所で
終戦後には空港が出来る頃前まではアカシアと松林に開拓者による畑と桑畑があったそうです。
今の勝平幼稚園には小さい沼だか湿地帯があってその辺りでやぐらを建てて原油を採掘していたと。
自分が住んでいないとどうも興味が持てなくて「酔ってまた始まった」。
今考えると秋田市の生き証人でした
地形図で黄色い道路になっているので県道と思いこんでしまいましたが、今は市道でしたね。
バイパス・運河・工場の印象が大きいですが、隠れた歴史があるわけです。
地震は秋田県内では本荘が激しかったです。明るい時間だったら、1年前の大阪と同じことが起きてしまっていたかもしれません。
各地とも大きな被害がなかったのが幸いですが、やはりいつどこで起きるか分からず、日頃から準備しておくしかありません。
NHK山形局では、自宅にいたというアナウンサーが15分後にはスタジオから放送していたのには感心したものの、揺れが小さかった山形市では切迫感は薄いように感じられました。酒田や鶴岡からの初動体制はどうだったのでしょう。
>あんなかさん
写真や図があればともかく、話だけでは興味も薄いでしょうね。語り継がれず消えてしまう史実も、世の中にはたくさんありそうです。
明治45年の地図では、勝平地区は運河沿いの街道沿いに家が立ち並ぶだけで、そこから海側はほぼ手つかずだったようです。
今の勝平保育園から新屋西線のバス通り付近にかけては「射撃場」となっており、それがその演習所でしょうか(わりと住宅にも近い)。あとは勝平神社が今と同じ場所にあるくらいです。
放水路完成、終戦、空港…とめまぐるしく変化して今に至ることになりますが、個人的には放水路ができる前は、新屋本体とまさに道1本でつながっていることに、とても不思議な感覚になりました。
私は秋田市在住で、更新楽しみにしてます。
いつもは分かったフリして読んでいるだけなのですが、私の知ってる部分が出てきたので初めてコメントしました。
文中の「水色の2連アーチ」は県管轄の工業用水ラインで、数十年前の大王製紙進出の際に整備されたものです。なので、整備されただけで使用はされてません。見た目立派なラインなのにもったいないですよね。
また更新楽しみにしてます。
玉川ダムの水を引いてくるというヤツでしょうか。それがこれだったとは。たしかにもったいないですね。
今後の維持管理も必要でしょうし。
こちらこそ分かったフリで書いている点も少なくないですが…今後ともよろしくお願いします。
いつも楽しく拝見しております。
転勤前には川元小川町の福祉法人におりました。
小川町の河岸にはかつて船着き場があり雄和辺りから毎日船で下り、天王から筏師らが男鹿汽車で詰めかけ土崎港まで流して土崎駅前でモッキリかけてから汽車で天王まで帰ったそうです。
雄和の人らは和田駅で降り二時間あまり徒歩で雄和に帰ったそうです。
会社は明治初期からの施設で昔は藩の庫と造船所、製材所があったそうです。
往時を知らない我々には、想像し難いですが、そんな時代があったわけですね。記録としてはどこかに残っているのでしょうが、貴重なお話です。
僕も、秋田市街地の人が、雄和方面へ出かけるのに、バス? で茨島辺りまで行って船に乗ったとか聞きましたので、それが小川町だったのかもしれません。
昔は想像以上に川の水運が重要視されていたようで、当時としては想像より広範囲で人の行き来もあったようですね。