広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

新秋田ビルの上

2018-08-17 00:25:06 | 秋田の季節・風景
秋田駅西口から広小路をまっすぐ進むと、旭川に突き当たる。
車両は丁字路の広小路西交差点で右左折するしかないが、歩行者は(柵があって一直線ではないけれど)直進して川を渡ることができる。歩行者専用の「大町公園橋」が架かっているから。

大町公園橋は秋田市が管理する橋で、平成の初めに【17日訂正】1987(昭和62)年9月にできた。【17日補足】名店街の閉店は1985年(隣りにあった百貨店・本金の駅前移転は1984年)、跡地に新築されたファッションアベニューADと秋田ワシントンホテル(現・イーホテル)が1987年オープンなので、それに合わせて橋も新しくなったことになる。関連記事
それ以前は先代に当たる橋が、すぐ下流側に架かっていたのだが、名前は違い「幸(さいわい)橋」。幅は今より狭く、側面は高欄(欄干)でなくオレンジ色の金属の構造物(今の下新橋の色違いみたいな感じ)だったと記憶している。幸橋は、現在のイーホテルの位置にかつてあった商店街「名店街」と広小路の往来の便を図った私設の橋だったそうだ。【17日補足】秋田市民の中には、大町公園橋の名前を知らず、今の橋も幸橋だと思っている人もいるようだ。

あまり記憶にないが、幸橋の右岸(大町地区=川反側)は、ビルの壁に突き当たっていて、そのビル1階の一部がトンネル状に通り抜けられる構造だったそうだ。
旭川と川反通りに挟まれた狭い土地だけに奥行きはあまりないから、10メートルちょっとのトンネルだったことになる。

そのビルは、今も残っている。
上流側から大町公園橋の向こうにあるビル
古めかしい6階建てのビル。今は割烹料理屋と、化粧品や衣類(ブティック)の小さい店と道場(?)が入っている(いた?)くらいで、空きフロアが多そう。今に始まったことでなく、名店街があってにぎわっていた当時(少なくとも昭和末の時点)も、あまり存在感がないビルだった気がする。【17日追記】「新秋田ビル」の名前からしてあまり知られていないはず。
かつて幸橋とつながる通路が貫通していた部分は、川側はショーウィンドウの一部、道路側はドア付きの出入り口に改装されていて、面影はない。ただし、川側に意味がなさそうな柵が設置されている部分があり、それは名残りかもしれない。
下流側から新秋田ビル
上の写真で手前・下流側には、外壁の色が違って、1フロア高い塔屋がある。(道路側の壁は他と同じ色)
この建物を知る人には、ここが物足りなく感じないでしょうか。ここ数か月の間で、ここにあったある物がなくなったので。
1つ下流の二丁目橋付近から

ほぼ同じアングルの2014年
塔屋の上に棒を組み合わせてできた箱が乗っかっていたし、川側の壁面に足場状のものが組まれていた。それが、今年初夏頃に撤去された。
拡大
この時は箱の中に板状のものが引っかかっているが、後に撤去されている。

さらにさかのぼって、
2000年11月。北都銀行本店前歩道橋から
市営バス、左側の「美酒爛漫」の広告が載った日専連ビル(二丁目橋たもと。現在は解体・中央道路地下トンネル避難口と駐車場)、奥は2010年に風で飛んだ「菅新」の青い看板。懐かしさを覚える写真。
新秋田ビルを拡大すると、

屋上には「HITACHI」、壁面には垂れ幕、さらに反対側の壁面には広告板。
HITACHIや垂れ幕は、いつの間にか廃止されて枠だけが残っていたことになる。確認できた限りでは2009年春時点で既に枠だけになっていた。
広告板は存在自体忘れれていたけれど、同様に廃止されたようだ。
記憶をたどれば、てっぺんのHITACHIは、昔は「日」と「立」を組み合わせた円形の旧ロゴだった。

広告枠だけ残っていると、工事途中みたいでみっともないから、撤去してくれていくぶん見栄えは良くなったと思う。また、それによって、
「新秋田ビル」の表示が見えるように。「ル」が「レ」になっちゃってるけど
おそらく垂れ幕があった当時から表示されていたと思うけど、名前を隠してまで広告を出していたのか。


近くのホテルの上には昔は「テルモ」の同じような広告があった。上記の風で飛んだ「菅新」は、自社の看板だったけれど、そういうのも減っている。
建物と看板の老朽化、広告手法の変化、人が減って街が衰退して広告効果が減ったことなどがあるのだろうが、秋田市街地で見上げる空も寂しくなった。

※11月には別のビルの屋上看板も撤去された。この記事後半。
コメント (10)
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