田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

電話の文化

2013年09月13日 | 日記
 昭和三十年の始め、私に記憶がある頃から家には電話があった。自宅と工場にそれぞれあった。自宅の番号は一桁番号だった。工場は十番台の始めの番号だった。電話をかける時は、電話機についているハンドルをグルグル回すのである。当時は知らなかったが発電機が内蔵されていたそうだ。発電された電気が電話線を流れ、電話局のベルを鳴らし、電話交換嬢が「ハイ、○○局です。」と対応してくれた。当時の電話機の数は少なく、番号も二桁止まりだった。住み家の電話機は向こう三軒両隣の(呼)電話として利用されていた。(呼)電話とは勤め先などに自分の電話番号を申告する場合に、電話が無いので近くの家の電話番号を知らせることである。(呼)電話へ電話するときは「○○さんを呼んでください。」と言うのだった。当時、あまりへりくだることはなかったから、お互い様の当たり前の社会習慣だったのだろう。
 現在の電話の使い方と違い電話は急を知らせる手段であった。もっとも訃報の場合は電報を使い、呼び電話で訃報を伝えることは控えたのであろう。しかし夜間の電話の多くは急を知らせる電話が多かったように思う。呼び出し音が鳴り受話器を取ると「○○からの電話をおつなぎします。」と交換嬢の声がした。しばらく待つと「○○電話局、××番から、おつなぎます。」と声が聞こえ、しばらくして電話を使い慣れない、かなたの人から「もしもし、もしもし・・・」が聞こえてくるのであった。子供だった私も時によっては隣人のおじさんを呼びに行く仕事を言いつかることもあった。
 私にとって電話は用件を伝えるものであって、手紙とは明らかに違っていた。電話の用件は常に急用であったり、時には訃報であったりする、心穏やかではなくなる知らせであった。それでいまだに電話の着信音が不吉な知らせと体が反応してしまうのである。
 さて近頃固定電話への着信が少なくなった。一ヶ月に一度も着信しない時もある。その代わり携帯への着信が増えた。仕事の電話であっても、夜間や食事時間にも着信する。不愉快な時もあるが、相手も忙しいのであろう、そうも言ってはいられず対応するが、それほどの重大な案件でもない。どうやら忘れないうちに伝えようと、極めて軽い気持ちらしい。
 携帯に慣れ親しんだ若者に聞けば、固定電話にはかけ辛いらしい。なぜなら誰が出るかわからないし、仮に本人以外の人が出たら何を話したらよいか解らないと言う。なるほど、だから仕事場の電話にかけるより携帯にかけてくるのだな。これが現代若者の携帯文化なのだ。夜の携帯は我慢してあげよう。10時過ぎたら電源落とせば良いのだからね。


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