田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

何事も終わりがある

2019年02月12日 | 日記
 不吉だが、何事にも終わりがある。後どのくらいの生きられるるか分からぬまま、生きている。誰だって同じだ。
 
 終わりを見届けたい気持ちは私の癖かも、ボールペンのインクの量が減り、いつの日か書けなくなる。その瞬間を見たいがために、貴重品並に大切にする。無くしたくない一つになる。
 
 ブログを書くきっかけになった故郷、何も残っていない。墓は改葬、住んでいた家は人手に渡り、その後空き家。廃屋になり危険とのことで町によって解体撤去され、今は道路の待避所になっている。ストリートビューで見るも思い出も消えた。
 
 しばらくのあいだ、本業と講師を掛け持ちした。大学講師という職は気楽なもので、手を抜こうとすればどれだけでも手を抜ける。学生のためを考えればどこまでも力をそそげる。まるで人間が試されているようだ。もちろん生徒に害を加えるようなことがなければ、クビにならないぬるま湯生活だと思う。
 
 こんな大学だが、実社会の風を吹き込んだ。風に敏感な学生の受講率が上がれば、他のコマも増やそうとするのが大学経営。受講率が増せば、翌年のコマを持たねばならず、退職が難しくなった。
 
 近年の少子化の嵐、学部閉鎖となり、円満に退くことができた。終わりがないと思っていた教育に終わりがあった。
 
 講師は大学と塾の2足草鞋、二つの職場だった。塾は日曜日開校、バッティングは無かった。年々の少子化は塾にも、その上、資格を得ようとする若者が減った。講師の給料が下がれば質が落ち、合格率も落ちた。
 
 マニュアルを信奉する社長には仕組みが解らない。社長の叱咤は社員の士気を下げた。結局、最も手間のかかる年間授業クラスを閉鎖。学院の「たった一つの売り」を自ら放棄した。短期の講師になる気が失せて辞めた。あの塾は遅かれ早かれ終わるのが見える。
 
 サラリーマン時代、33歳まで勤めた会社、年々従業員は減った。業務は大都市の事務所に流れ、地方の会社は隙間を狙う仕事のみ。この職業を選ぶ若者もいなくなった。会社の負債は大きいらしい、終わるのが見えた。
 
 今朝社長から電話があった。「人手が無くてまとめられない業務を完成させて欲しい」との依頼だった。金にはならぬ。未収金は焦げ付くだろう。何事も終わりがある。お世話になった先生方はすでに去った。私は沈む船を見ておこう。私の悪い癖なのだろう。