続・蛙独言

ひとりごと

蛙の「部落問題原論」 2

2011-05-23 08:57:07 | 日記
「差別者」側について言えば、意図的に「差別してやろう」と考えてする場合もあれば、「差別するつもりで」の言動ではない場合もあるわけです。
そう単純なものではない。
東京の連続差別はがき事件の犯人などでも、自身の行為が「差別行為」であるという認識など本人には全く無く、むしろ「当然の行為」であったわけです。
主観的にはそうですね。
田中克彦さんの著作をずっと読んでいただくとよくご理解いただけると思いますが、私たちの生活を成り立たしめている「ことば」の「交換」も、よほど注意深く自覚的に使われていかない限り、社会の構造そのもの、或いは文化の在り様からして、「差別」を再生産していくことにつながりかねないということがあるのです。
朝田善之助は「こういうこと」を指して「空気をすうように」と言ったのでしょうが、この表現は妥当ではありません。
そう言ってしまえば「日共」に「揚げ足」を取られたように「全ての人を敵にまわす」ということになりますね。
朝田には「丁寧さ」のかけらもなく何でも「紋切り型」に「言明」をする癖があったように蛙には思われます。
話は変わりますが、中学の理科で、「池にボートを浮かべて岸を手で押すと反対の向きにボートが進んでいく」というのがありますね。
作用―反作用という奴です。
ここでは「押した力」と「ボートの進んでいく力」は向きは反対ですが、「量的」には等量です。
こういう場合「対称性が保たれている」という。
力学などでは数量的に明示されるわけで、分かり易い。
社会科学の場合、そういう視点が初めから欠如していることが多く、「一つの言明」については丁寧に「対称性」について考え直してみる作業は欠かせません。
「問題」或いは「人権意識」などのアンケート調査では、対象の分析が図られているわけですが、それはまた、「対象を突き動かす」ということでもあるわけです。
下手をすると「問題の解決に役立てたい」とか「人権意識の向上に結び付けたい」という「主観的意図」とは反対の効果をもたらしかねません。
調査の設計段階で「作用―反作用」「対称性」ということをよく考えなければならない。
また、その意味は改めて別稿で論ずるとして、「同和対策事業の実施」についても、初めからそういう視点が大切にされていれば、今頃になって「行政依存からの脱却」などということを改めて問題にしなければならないなどということにはならなかった筈です。
具体的な「差別事象」ですが、これは「差別者」の側では「痛くも痒くもない」、むしろ自身の「行為」によって多くの人々が「右往左往する」のを眺めてする「愉快犯」的なところもある。
それで「被差別」の側がそれをどれ程「重く」受け止めることになるか、「差別者側」には理解されることはありません。
ここでは「対称性は破れている」のです。
「差別者側」の行為の「軽さ」と「被差別」の側の受け止める「重さ」には天地ほどの差がある。
実は、「差別者」自身には気付かれていないけれども、その「人」の「人間性」、例えば「優しさ」や「人を大切に思う心」などなど、ホントのところ彼(彼女)が失っている「もの」もまたたいへんな大きさになっている。
それだから「差別糾弾」の取り組みは「被差別」の側を勇気付け、支えるばかりではなく、「差別者」自身の「人間性の回復」が目指されているのだというわけですね。
(つづく)

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