続・蛙独言

ひとりごと

その九

2013-08-19 11:01:18 | 日記
神戸ではそんなことはなかったのだけれど、「特措法」時代には「同盟員」にあらずば「住宅入居」「奨学金受給」その他「個人給付」的な施策を利用できないということがあったから、1970年代、それこそ「燎原の火のごとく」という勢いで「同盟」の「支部数」とか「組織人員」は拡大していったのです。
30万人に届くほどでしたでしょうか。
これはもう「バブル」というほかありません。

この時、日本共産党と同盟の関係は既に敵対の極みにありましたが、その原因は主には共産党反対派の「日本のこえ」グループが同盟の中枢を占めていたからでした。
たいへん不幸な経緯をたどったのです。
大阪など、「窓口一本化反対」を主張して共産党は「同対審答申・特措法は毒まんじゅう」としていたにもかかわらず、その恩恵に浴するために首尾一貫した態度をかなぐり捨てて「同盟攻撃」に狂奔しました。
神戸の場合、「同盟」は共産党が実権を握っていましたから、そのような展開からは免れました。
ただ、全体としては、どちらかといえば「保守系」の「自治会連合」であった「同促協」の方が力がありましたから、神戸市行政は「大阪などのような混乱」を避けるために、「こちら」の方に肩入れをして「同和行政」を進めてきたのでした。

この頃の蛙は「問題」も「同和行政」も皆目「意味不明」の話でありましたから、「傍観者」に過ぎませんでした。
優れた意識を持った人々も神戸にはいなかったわけではありませんが、後から蛙が考えるに「それは思想運動の域を出ず、地域的・大衆的運動からは縁遠かったのではないか」ということになります。

神戸は特別な例で、兵庫全体としては「大阪型」の展開だったようで、殆どの地域で同盟支部が組織されていくのは「この時期」だったのです。

「法期限切れ」から、全体としてもそうですが兵庫の同盟は「その行く末」を見失ったままという状況が続いていくようです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。