「差別―被差別の非対称性」ということを蛙は言ってきた。
差別に限ったことではないが、差別する側にあっては「そのこと」の重大さは決して意識されることがないけれども、被差別の側が「そのこと」から受けるダメージは決定的な重さを持っている。
とりわけ差別についていえば、「おさなごのやわ肌に押し付けられた烙印」として形容されるべき質を持っていて、消えることのないスティグマを克服することは簡単なことではない。
「徹底糾弾」の闘いの中で、対抗する力を獲得する外ないのだ。
糾弾闘争と言えば解放同盟の専売と考える人も多いだろうが、実際のところ「被差別民」にとっては、「差別に抗して」生きていく道筋そのものが「糾弾闘争」なのだ。
例えば、蛙の父親のように同盟とは縁もゆかりもないところで生き抜いて闘ってきた者にとっても、「糾弾闘争」が「生き方」そのものだったと言える。
ところでこの「徹底糾弾」であるが、蛙の考えるところ一般に「大きな誤解」があるように思われる。
糾弾闘争の態様が差別者をして恐怖に震い上がらさせるようなものであるべきだと。
それは違う。
どのような経緯をたどるにしても、徹頭徹尾、「差別は許さない」という「意識」が最後まで貫かれなければならないということだ。
途中で、妥協とか、一定の獲得目標の達成とかといったところで「腰を折ってしまう」べきではないのだ。
それだから、ケースによって激烈な闘いになることもあろうが、穏やかで冷静な「持続する対話」であったりもするだろう。
ひとつ気をつけておかなければならないことがある。
或る人が「差別は昔ほどあからさまなものではなくなった。少なくなったと言ってよいと思う。それは解放同盟の糾弾闘争の成果だ。」ということを言われていたが、蛙の考えはちょっと違っている。
勿論、そういう評価が全く間違っているということでもないし、一定、正しくあるのかも知れないが、それよりは、「その時代に支配的な階級」による「文化」とか「意識」とかの意図的で系統的な「社会の組織化」に因るものなのだ。
現在では、この国の民衆の間に打ち込まれている主要な「楔」は「差別」から「外国人差別」へ移り変わって来ていると蛙は思う。
第一には、主要な攻撃対象を在日朝鮮人にする「ヘイトクライム」に対する権力の側の対応があげられよう。現行の法律でも充分規制が可能であるにもかかわらず、それをしないばかりか、「ヘイト」に抗議する側を弾圧することで、レイシストを「持ちあげて」さえいる。
第二には、資本の側の要請になる「外国人労働者」の受け入れだが、その処遇の問題がある。
彼らがどれほど酷い状況下に置かれているか一般に知らされることがないし、そのような中で生まれてくる「ちょっとした犯罪」もマスコミで大々的に扱われ、排外主義が煽られている。
第三に、「外国人」をあたかも犯罪者であるかのように扱う「入管体制」の反動性の故に彼等の多くが「信じられないような不幸」に追い込まれている現実がある。
まだまだ数え上げればきりがないが、こういった政策を通じて全般的な「排外主義思想」が組織されていっていると言わなければならない。
時代は大きく「右旋回」という状況だが、この間、様々な反動的法律が成立をし、庶民の生活を打ち砕くかのような制度改革が実施をされようとしている。
確かに闘いは厳しさを増していくかのように思えるが、実は「この状況」は彼等支配層にとっても世界大での危機意識の表出でもあるのだ。
彼らもまた怯えている。
進路は不確かではあるが、反権力の側が意気消沈する必要は全くない。
「新しい闘い」が構想されなければならないが、常に闘いの準備が必要とされている。
差別糾弾についても蛙は「新しいスタイル」が構想されなければならないと考えているが、中西和久氏の「ひとり芝居・しのだづま考」を巡る「差別事件」は、「新しい闘い方」を模索する上で大きなヒントを提供してくれていると考えている。
小林健治氏の「連載差別表現」の12月27日の記事をまず読んでいただきたい。
いささか長いけれども、重要な一文である。
小林氏はこの後、続けて書いてくれていないのが残念ではあるが。
次回、この問題について考えてみたい。
下記アドレスをクリックしていただければ読めるのでお願いしたいと思う。
http://rensai.ningenshuppan.com/?eid=130