所在地 秀吉本陣跡 兵庫県三木市平井
三木合戦は、天正6年(1578)3月から同年8年1月までの1年10ヶ月にわたる、三木城主別所長治方都羽柴秀吉を大将とする織田信長方との合戦です。この合戦は、秀吉の軍師である竹中半兵衛と黒田官兵衛も参戦し、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めで広く知られています。
羽柴秀吉が三木合戦(三木城攻め)の際に本陣を置いた場所まで、一部、整備された階段を歩きます。
しばらくすると、雑木林の中を歩きますが、小雨が降る中を「大河ドラマ」の影響加多くの人が来られています。
しばらく進むと、道の右側が段々畑のように細長い兵が駐屯できるよう斜面地を削り、土を盛ったりsて、段状に複数の平坦地を築いています。本陣跡には段状の平坦地群が沢山築かれています。
尾根上の山道は、太閤道とも呼ばれており、秀吉ゆかりの道であったと思われます。
更に進み、主郭の内部に入ると、かなり木が生えてはいるが、主郭中央部には土が盛ってあり、かなり広い平坦部になっている、平坦地等の周辺には築かれたかまぼこ状の土盛り、防護施設があります。主郭の一番奥には、羽柴秀吉本陣のノボリが、
簡易展望台が建っているので、ここから、往時の秀吉のごとく、三木城を見下ろす事ができるようだ。主郭の周囲は低いが土塁で囲ってあるのも分かる。平井山付城(平井山ノ上付城)跡は、三木合戦にて織田方が三木城周辺に築いた付城(つけじろ)の1つで最も大きく、秀吉の本陣と伝わる場所。付城は40余り築かれたという。天正6年(1578年)7月、神吉城を落とした織田信忠は平井山に着陣し付城を構築、翌月秀吉が着陣しました。
東側に伸びる尾根を歩いて行くと、部分的に土塁で囲まれ櫓台状の土盛りが見られます。
ここにも段状の平坦地群があります。往時はどれぐらい多くの兵が駐屯させられていたのでしょうね。
「大手口(推定)」跡。地面が1mほど深く掘られ、虎口を形成して、秀吉本陣への入口で、与呂木から谷伝いに上る登城道の本陣入口で両側を一段高く切盛りし、段状に平坦地を設け、見張りなどの兵を駐屯させたと思います。
主郭付近に戻って来ました。名軍師竹中半兵衛が病歿しており、その墓がおよそ500m余りの距離にあります。
次回をお楽しみに では またね