(先週の説教要旨) 2013年12月15日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「気を落とさず祈れ」 ルカによる福音書18章1-8節
イエスはここで執拗に祈ること、祈りの大切さを語られる。ギリシア語では人間を「アンスロポス」という。それは「祈る存在」という意味。だから、古今東西を問わず、人間にとって祈りのない生活は考えられないと言っていい。それほど祈りは身近なところにありながら、祈りがいつの間にかお座なりになったり、事が起こると思い出したように祈るのは私たち人間の身勝手さといえるだろう。特に、現代の日本人は自力で生きるという傲慢と、一方、どうせ駄目だというあきらめの中で「祈らない存在」になっているのではないか。
このたとえには、不義な裁判官と貧しいやもめが登場する。旧約聖書を見ると、不義な裁判官は貧しい人々や孤児ややもめに暴虐を振うものとされている(イザヤ10:1-2など)。また、やもめは暴虐と搾取にさらされやすい弱い人の典型である(申命記24:17など)。このたとえに出てくるやもめも、トラブルに巻き込まれ、社会的に力ある人に不正に訴えられたようだ。遺産の土地の問題、亡夫の借財の問題だったかもしれない。いずれにせよ、それに対して、やもめは裁判官に公平な裁判をするように願ったのである。
不正な訴え、非難の中でも、このやもめはあきらめなかった。不義な裁判官に正当な解決を願い続けた。あまりに執拗に願い続けるので、とうとう裁判官の心は動いた。裁判官が悔い改めて、正義の裁判官になったわけではない。やもめがうっとうしいので、仕方なく彼女の願いを聞いたのである。
イエスはこのたとえを受けて、「まして神は叫び求める者の願いを聞かれないことがあろうか」と言われ、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えられた。5節に「さんざんな目に遭わす」という言葉があるが、これは「殴る、顔に青あざをつくる」という意味がある。やもめは裁判官の顔に青あざをつくるように強く殴るように熱心に願ったのである。人は弱い存在である。だから祈るのである。子どもが泣きながら親の胸を叩くように、無力さの中で、神の胸をたたき続けることが祈りなのである。
しかし、祈っても、祈っても、聞かれないような思いに取りつかれる時があり、祈る気持ちさえ奪われたかのような時がある。祈ることがバカバカしいとそっぽを向きたくなることだってある。「気を落とさずに」とは、そのような私たちに向けられた言葉のように思われる。
このたとえに登場する裁判官は、私たちが祈っても祈っても聞かれないと思える時の神の姿を私たちの側から想像したものである。しかし神は決して人の祈りをないがしろにされる方ではないことをこのたとえは教えている。祈っても祈っても聞かれない時がいかほど続こうとも、ついには祈りが聞かれる時が来るとの約束がここにある。だから「気を落とさずに祈れ」なのである。