平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

共に生きるための祈り

2013-08-13 10:17:09 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年8月11日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「共に生きるための祈り」 ルカによる福音書11章1-13節

 主イエスが一人での祈りを終えられた時、弟子の一人が主イエスに「わたしたちにも祈りを教えて下さい」(11:1)と願った。そこで、主イエスが教えられた祈りが「主の祈り」と呼ばれるものである。

 この五つの祈りは前半の二つと後半の三つに分けることができる。前半の二つには「御名」「御国」という言葉がある。「御」という言葉は、神に対する尊敬語。つまり「神の」という意味になる。だから、「神の名」が誉めたたえられるように、「神の国」となるように願いなさい、という祈りになる。

 後半の三つはどれも「私たち」という言葉で始まる。それは「私たち」として生きることを願いなさいという祈りである。つまり、主イエスは「神と共に」の祈りと「他者と共に」の祈りをしなさいと言うのである。

 この祈りは十戒や、また主イエスが一番大事な戒めとして教えてくださった二つの戒め、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)でも同じである。

 しかし、私たちはこの「神と共に」と「他者と共に」を分けて考えそうになる。「教会のこと」と「生活のこと」を分け、「神のこと」と「他者のこと」を分けて考えてしまいがちだ。しかし、この二つは実は一つのことである。裏、表の関係といってもいい、表裏一体。「御名が崇められますように」という祈りひとつとっても非常に宗教的な祈りである側面と、個人の自由であるはずの信仰さえ、政治や権力によって制限され、支配されようとする現実があるからこそ、祈らなければならないという側面がある。主イエスもまた信仰のことは生活のこと、教会のことは社会のこと、二つの祈りは一つであることを示すため、五つの祈りに加えて一つの譬えを語られるのである。

 「夜中でもしつこく頼めば必要な物が与えられる」という一見とても乱暴な譬えは、神に対して「あなたでなければどうしても駄目なんだ」という神への絶対的な信頼と、同時に「この友が私にとってどうしても大切なんだ」という隣人への愛という行為の中から生まれてきた祈りなのである。

 神への信頼と他者と共に生きる切実な願い、愛、そのような歩みの中に「御国」はある、と主イエスは語られるのである。人にこれをしてあげたいが、私にはないから、神よ、どうぞ与えて下さい、という愛の不足感、愛の渇きをもった祈り……神の言葉に信頼しながら、そこで叫んでいく祈り。

 主イエスは「御国」を求めなさいと言われまる。「私」ではなく「神」に信頼する時、さらに「私」ではなく「私たち」として生きることを求める時、「与えられる」「見つかる」「開かれる」と主イエスは語る。ここに私たちの希望がある。祈りが生まれる。