(先週の説教要旨) 2013年8月4日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「和解による平和」 マタイによる福音書5章21-26節
どの宗教にも重要な戒律がある。ユダヤ教の場合、「十戒」(出エジプト記20:2-17)を中心とした「律法」である。似たような戒律はイスラームにもあるし、仏教にもある。紀元前18世紀に作られた人類最古の成文法である「ハムラビ法典」にも共通の部分がある。その意味では、「十戒」は人類に普遍的な「道徳律」と言えるかもしれない。
しかし、ユダヤ教徒にとってはそれは単なる「道徳」を超えた、特別の意味を持っていた。つまり、彼らはそれを「神の」命令として受け止めたのである。さらに、その律法について、主イエスご自身は山上の説教で、自分が来たのは律法(十戒)を「廃止するためではなく、完成するため」であると言い、その「一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17-18)と明言して、その重要性を最大限認めたが、同時に、十戒の条文を「原理主義的に」守ろうともしなかった。むしろ、律法の中で「最も重要な掟」は「神への愛」と「隣人への愛」であるという洞察(マタイ22:37以下)に基づいて、「十戒」を新しく解釈し直した(マタイ5:21以下)。私たちが「十戒」を読むとき大切なのは、主イエスが示されたこの道ではないだろうか。
たとえば、第6戒の「殺してはならない」。確かに私たちはこの戒めを知っている。しかし、私たちはどこかで「正当な殺し」を模索していないか。「もし侵略されたら、もし愛する者が襲われたら、そんな時には相手を殺しても仕方がない」と思う。確かにそんな「極限状態」に見舞われた時、この戒めを守ることができるかどうか心もとない。戦争やテロが現に起こっている今日、なおさら私たちの思いは「正当な軍備」「正当な防衛」「正当な報復」へと傾いていく。
しかし、神はただ「殺してはならない」と言われたのである。そこには状況に対する説明も、条件も何一つ語られていない。すなわち「こんな場合は、殺してもよい」とは言われていない。どんなに大変な状況であったとしても私たちが殺すなら、この戒めによって私たちは問われるのである。
では、「殺す」とは何を意味しているのだろうか。それは命を奪うこと。相手の「存在を否定すること」。主イエスはこう語られた。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。怒りや敵意、さげすみは、相手の存在を否定することであり、殺すことと同じだと、主イエスは言われる。「殺すな」は、命を奪うことと、それに通じるあらゆる道を問うている。
戦争は、殺すこと。私たちは、戦争を否定する。同時にそのための備えも、それに対する協力も拒否する。なぜなら軍備の必要性は、敵を想定することによって正当化されるからである。ミサイルを発射させ得るのは私たちの持つ敵意である。暴力の肯定、軍備、有事体制などを正当化するのは、すべて敵意である。主イエスは、この敵意と殺しを同じことだと言われている。御言葉に生きる私たちは、敵意や軍備そのものを否定する。
キリストは、「敵意という隔ての中垣」(エペソ2章)を取り除かれた。これが私たちの希望である。すでに主は勝利されており、敵意の問題は解決している。この希望を信じる私たちは、地上から敵意がなくなるように努力する。
戦争のために「正当化の理由」を探すのではなく、敵意を取り除くというキリストの業に参与することによって地上から戦争の備えと戦争そのものを無くすのである。殺すなという戒めは、単に命を奪わないということのみならず、この世界から敵意を取り除くというキリスト者の使命を指し示しているのである。これが和解による平和の構築。これがキリスト者の使命。