(先週の説教要旨) 2010年4月11日 杉野省治牧師
「まことの権威」 マルコによる福音書12章35~13章2節
エルサレム神殿と最高法院による管理支配は、庶民の生活を倫理的にも経済的にも圧迫していた。神殿を維持するために、献げものが神殿税として半強制的に課せられ、それによって貢献度が計られるようになっていた。さいせん箱に、これみよがしに大金を投げ入れる金持ちや最高法院の議員である律法学者たちは、大手をふって上座に迎えられ、一方、経済的にも困窮しているやもめたちは、身を縮めていくしかなかった。主イエスはこうした社会状況の中に踏み込んで神殿や最高法院に対峙され、この世の権力や権威を厳しく批判された。「上席や上座を好み、やもめたちの家を食い倒しながら祈っているような者たちは、厳しいさばきを受ける」(40-41節)と痛烈に批判された。
主イエスは、羊飼いから王に登りつめたダビデも主なる神の前では一人の人間に過ぎないことを話された。主イエスは「キリスト」を「ダビデの子」と呼ぶのを良しとされなかった。「ダビデの子」待望の教えは、神殿権威へのさらなる強調であり、神殿によるユダヤ社会統一実現へのいっそうの推進につながるものとなっていたからである(35-37節)。
その上で、神殿に出入りする律法学者たちが尊敬のまなざしを受けることのためにあざとく振舞っていることを痛烈に批判された(38-40節)。絶えず、自分への評価を気にしながら、大事に扱われることを願う人間の本質(罪)がそこにあらわされている。
次はレプタ2枚を投げ入れたやもめの話。直前の文脈からすると、まことの神に従う人間であるかどうかが描き出された箇所といえる。多くの金持ちの関心はどこに向けられているのか。また一方の貧しいやもめの関心はどこにあったのか(41-40節)。さらに、神殿を見上げて感激している弟子に対しても、むげにそれを退け、神殿の崩壊を宣言された(13:1-2)。これは、弟子が神殿による権力に心ひかれることへの明確な拒否である。
このような神殿支配を批判する主イエスの教えとふるまいに、一方では感激して迎える「群衆」の姿が描かれる。「大勢の群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた」(12:37)。それは、神殿による社会支配体制の下で、管理される側に置かれていた人たちが、主イエスによって身元に呼び出されてきたことの証しである。
このように一貫して時の権力や権威の象徴と対峙し、「まことの権威」を指し示す主イエスの姿から、私たちはどこに身を置き、何をよりどころとすべきか問われている。今日もまた、「神殿」は違ったかたちでこの社会のあちこちに君臨している。現代の神殿は何か。財産、学歴、会社、地位、名誉、家柄……。
立派ではあるけれども、富や権力の秩序によって成り立っている空虚な神殿は、どんなに外見は素晴らしくともいずれ崩される。私たちはそのような目に見えるものではなく、互いに仕え合う関係、互いに愛し合う関係を壁や柱にした神殿(神の国)を建設することが求められているだろう。それは、まことの権威を持ってこられた主イエスが、十字架で命を捨てられることを通して始まっている。私たちの教会が神の国の建設のご計画の端っこに加えられていることを喜び、励みたい。主にあって世に仕える業、愛の業へと教会からそれぞれに押し出されていこう。私たちの働きの前線は、それぞれの生活の場にある。