牧師室だより 2009年12月6日 残り柿
暦は12月を迎え、刈り入れの秋は終わりました。今年も多くの自然の恵みをいただきました。神の恵みとして、感謝しましょう。教会の庭の柿の木も豊かな実りをもたらしました。何の手入れもしないのに、たくさんおいしい柿の実をいただいていると、申し訳ない気持ちになります。誰に対して申し訳ないのだろうか、とふと考えたりします。この恵みに感謝して、精一杯、神にお返ししたいと思います。
柿を収穫した時、3つほど柿の実を残しました。それは、餌の少ない冬場に鳥たちの食物になります。それを「残り柿」というそうです。このような心やさしい風習があることを知ったのは大学生の時でした。
大学の恩師、古田拡先生(児童文学者、国文学者)の中学教科書にも載った随筆『残り柿』を学んだ時でした。その随筆は、四国の寒村(古田先生の故郷)の晩秋の風景がつづられ、村の人々が自分たちのひもじさを我慢しながらも、鳥たちのために柿の実を残す風習がつづられていました。
都会育ちの私には鳥のことなどに思いいたりません。実ったものは全部収穫するのが当然と考えていたので、そのような心貧しい、想像力の欠けた自分が恥ずかしくなったことを覚えています。
聖書にも同じようなことが書かれています。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(レビ記19:9-10、申命記24:19-22参照)。
いわゆる落ち穂拾いの規定であります。収穫物の一部を寄留者、孤児、寡婦と分かち合うべきであったのです。これら三者は農地を持てず、生活上不利でありました。古代社会なりの一種の社会保障であります。その動機は、出エジプトという救済史の出来事でありました。さらに、この規定には、土地は神のものであり、土地所有者も土地を持たない貧しい者も共に神の恵みに与るべき、という思想があります。共に生きるという原点でもあるでしょう。