(先週の説教要旨) 2011年7月3日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「真理に立つ者」 使徒言行録24章10-21節
ここに出てくるユダヤ人の側の弁護人テルティロは、まず総督フェリクスに、丁重なお世辞、おべっかか、へつらいに近い言葉で総督を持ち上げている。しかし、真理に立つ者は、決しておべっかを使わない。パウロの弁論とテルティロの最初のあいさつの部分(24:2-4)を比べてみればよく分かるだろう。パウロは、「わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした」(第一テサロニケ2:5)と言っている。真理に生きる者は、真理自身が証ししてくれるので、別におべっかやお世辞を用いる必要はない。パウロは「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます」(第二コリント13:8)とも言っている。しかし、だからと言って、パウロは礼儀をわきまえないのではない。彼は、必要最低限に丁重さを失わない。礼儀とおべっかとは、全く違う。真理に立つ者は、おべっかを使う必要はないが、しかし、相手を尊重し、その場にふさわしい礼儀をわきまえねばならないだろう。
さて真理とは何だろう。聖書でいう真理とは、実証されうるもの、そして信頼に値するものを指す。それは堅固なものであり、決して変化しないものである。こうも言えるだろう。聖書に言う真理とは、すべての人に対する神の変わらぬ意図(計画、愛、摂理)であると。だから、神の真理に対する正しい応答は、神の約束を信頼することであると言えるだろう。神の真理は、神の言葉、主イエス・キリストだとも言える。主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14:6)。
弁護人テルティロの主張は、第一に、パウロが疫病のような人間であること、次にユダヤ人の中に騒動を起こしていること、第三に、異端のかしらであること、最後に神殿を汚したということである。一体、騒ぎを起こしているのは、ユダヤ人の方ではないだろうか。パウロは、ただ福音を語っているに過ぎない。パウロは、民衆を扇動したり、社会の秩序を乱したという訴えは、確かな証拠のないことだと指摘し、また、キリスト教は異端ではなく、旧約聖書の預言や律法を成就する正統の信仰であることを明らかにした。それは、剣や暴力によるものではなく、ただ神の言葉によるもので、あくまでも霊的なものにほかならない。だから、それは聖霊によって、私たちの中に働く主ご自身が支配した結果にほかならないといえるだろう。
総督フェリクスは、決して良い政治家ではなかった。彼は無慈悲、残忍で有名である。弾圧は、反逆を生み、ついに彼は失脚したと言われている。彼は、パウロから賄賂をもらいたくて、何度も呼び寄せて、話を聞くふりをする。パウロは、このような機会をも、また福音の宣教の時と変える。パウロは、ローマ世界の権力者の日常生活が名誉欲、金銭欲、不道徳に満ちていることをよく知っていたので、生ける神に根拠を持つ「正義や節制や来るべき裁き」(24:25)など、ありのままに、力強く語った。まさにフェリクスに向けた、悔い改めの説教である。
神の召しに応答する、生き生きとした生活を送っている人、神の言葉に生きる者には、旧約の多くの預言者たちがそうであったように、この世のいかなる権力の前でも、恐れず、正しく、神の言葉を宣べ伝える勇気が与えられるのである。神ご自身が働かれるのである。私たちも神の真理に立つ者として、神の言葉に生きる者として、神の勇気に押し出され、神の力により頼みつつ、主の証人として生きるよう励みたいと願う。