江戸時代の無名の漢詩人・野内浮石という人の詩を見ていたら、詩の題に「小口森君見過訪」(小口の森君、過訪せらる)とあるのが目にとまった。
「過訪」とは何のことだろうと辞書を引いてみたら、どういうわけか手元の漢和辞典には出ていないで、『広辞苑』に、「通りすがりに人の家を訪問すること」と出ていた。
「通りかかったものだから、ちょっと寄ってみたよ」といって友人宅を訪れる訪問の仕方は、なかなかいいものだと思うのだが、電話や携帯、スマホなどの通信手段が普及した今となっては、そうした突然の訪問は常識はずれとされかねないであろう。
科学が発達して生活が便利になるのはいいことだが、こうした趣のある訪問の仕方が失われてしまうのは寂しい気がする。
「過訪」とは何のことだろうと辞書を引いてみたら、どういうわけか手元の漢和辞典には出ていないで、『広辞苑』に、「通りすがりに人の家を訪問すること」と出ていた。
「通りかかったものだから、ちょっと寄ってみたよ」といって友人宅を訪れる訪問の仕方は、なかなかいいものだと思うのだが、電話や携帯、スマホなどの通信手段が普及した今となっては、そうした突然の訪問は常識はずれとされかねないであろう。
科学が発達して生活が便利になるのはいいことだが、こうした趣のある訪問の仕方が失われてしまうのは寂しい気がする。